松永太の生い立ちは想像を絶するほどに特殊なものと言える。
商売を営む両親の元で裕福な家庭で育った松永太は嫁への仕打ちと平然とやってのけていた。
そして、女性関係も半端なものでは無かったことが、明らかになっているのだ。
ここでは松永太の生い立ちを、中心に紐解いていき、松永太が何故、日本史上に名を残す犯罪者になっていったのかをみていこう。
松永太の両親について
松永太の両親は元々、小倉で畳屋を営んでいたという。
父方の実家は柳川市で布団販売業を営んでおり、1968年に実家の布団店【松永商店】を引き継ぐために、家族全員で柳川市に転居。
高校を卒業した家業を手伝うようになった松永太に、1980年頃、経営権のほぼ全てを譲るようになった。
松永太の両親は松永太が逮捕された後は、親戚縁者ともに一切、マスコミの取材はうけていないという。
現在はどの様な生活を送っているのかは不明であり、今後、表沙汰になることはないと思われる。
松永太の生い立ち
「(日常的な通電は)学校の先生がげんこつで叩くようなこと」
【北九州監禁殺人事件(2002)】、松永太 pic.twitter.com/z0EjccqEIF
— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) 2017年9月3日
松永太は1961年4月28日に北九州市小倉北区で生まれた。
長男として生まれて、7歳の頃に父親が実家の家業を継ぐために、柳川市に転居していた。
地元の公立小学校に入学した松永太であるが、全学年通して成績表はオール5。
さほど勉強をしていないのに、松永太は抜群の記憶力と自信で誰からも一目置かれる存在になったのだった。
学級委員長も何度も務めており、生徒会の役員にもなっていたという。
松永太の生い立ち~中学・高校時代~
中学に入学してからは1年生の時には、校内の弁論大会に出場し大活躍。
理路整然と語る口のうまさは既に発揮されており、何と3年生を指しおいて優勝するという離れ業をやってのけていた。
男子バレー部のキャプテンも務めており、どこからどうみても優等生でエリートであったが、教師たちの評判は良くなかった。
何故ならば、教師の前ではいい恰好をしているものの、陰で悪さをしていたことが分かっていたからだ。
自分より弱い人間を率いて、彼らに悪いことをやらせていたのだ。
『俺は松下幸之助(パナソニックの創始者)といつでも連絡がとれる。』
と、嘘をついたりしていたともいう。
更にはいつもリーダー的存在で目立ちたがっており、周囲には声を大きくして威圧感を与えて有無を言わせなかったという。
この頃から株の話や、金儲けに強い関心を示していたという。
中学時代は担任の家庭訪問も拒否しており、結局、両親とはあったことはなかったのだそうだ。
後に共犯者として供に罰をうける緒方純子と同じ高校に進んだが、この時は大した関係にはならなかった。
高校2年生の時に生徒会の風紀委員長に立候補して当選している。
だが、校則で禁じられていた女子生徒との不純な関係が発覚して、他校に転校するしかなくなったという。
編入先の高校でも3年生の時には、性懲りもなく、風紀委員を担当していたという。
松永太の生い立ち~高校卒業後から株式会社設立まで~
1980年3月に高校卒業。
その後は大学進学せずに、すぐに福岡市内のお菓子店に就職したが、たった10日退職。
両親の仕事を手伝うようになり、1982年1月に松永太は嫁と結婚し、翌年には息子をもうけている。
この頃には両親から商売の権利を譲ってもらっている。
青年実業家として歩みだした松永太は、その秋に同級生であった緒方純子と再会し、不倫関係に陥った。
1981年5月に柳川市内の自宅を本店として、有限会社ワールドを設立している。
1985年に自宅の敷地内に鉄筋3階建ての自社ビルを新築し、柳川市内の料亭に200人もの人間を招待して、盛大な新築祝いを行っていた。
1986年には資本金500万円を投入し有限会社から株式会社化している。
松永太の会社がヤバすぎる!!
松永太は両親から受け継いだ布団販売業を大胆に改革していき、非常に目立っていた。
株式会社にした際にどういうわけか、三井物産の登記簿のコピーをとってきた。
そして、司法書士に登記簿の営業項目をそれと同じようにしてくれと頼み込んでいることが明らかになっている。
その項目は17項目にもおよび内容は以下の通り。
貿易業、採鉱、開発、製造加工業、広告出版業、製材業、海上運送業、損害保険代理店業、医療施設、スポーツ施設、飲食店、旅館業
実際にこの中の営業項目のどれにも属することがない、商売で暴利をむさぼっていたのだが・・・。
だが、実体は高額な布団セットを無理やり売ったりして暴利を貪る詐欺商法で、経営状態は常に自転車操業であった。
更には雇用している従業員には、仕事でミスをするたびに罰金を課するというルールをもうけていた。
加えて松永太は従業員たちに背後には極道組織がいると脅して、気に入らないことがあると、四の字固めや空手チョップなどのプロレス技をお見舞い。
そして、事件でも衝撃を与えた通電による電気ショックもここから生まれているのだ。
そうした行為を従業員にすることで恐怖を植え付けて、支配をしていた。
従業員にはとんでもない以下の様なも指示していた。
出身校の教師や卒業生に連絡を取るようにいい、同情をひくなりして協力させろという無茶ぶりをして、高額な布団セットを売り捌かせた。
松永太を恐れるがあまり、従業員は嫌々ながらもそれを行っていたのだ。
1992年10月に株式会社ワールドが破綻し倒産するまでに、松永太が悪徳商法や悪徳経営を繰り返して得た売上は少なくとも1億8000万円以上に上っていた。
あくまで経営をうまくいかせる為に、恐怖政治をひいていたのではない。
それに加えて、他人を奴隷のようにして支配欲を満たすという趣味嗜好が、松永太にはあったとみて間違いない。
松永太の嫁や女性関係がエグすぎる・・・
松永太は自分に従える人間を作り上げる為には、何も暴力を使うだけではない。
強引に契約を結んだ際、顧客が支払いを渋ると松永太は従業員を引き連れて、談判しにいった。
そこで、さながら霊媒師の様に装い、数珠などの小道具などで巧みに演出して、顧客に霊が憑いているといい不安を与えた。
優しく話を聞く素振りをして、仕事のことで悩んでいると打ち明けた顧客に、自分の会社・ワールドで働くように説得。
いざ会社で働きだしたら、会社近くの所謂、タコ部屋に押し込めて監禁状態にして、悪徳商法を叩きこんで詐欺の布団セットを販売を強要。
ある人間は2年間、そこに閉じ込められて、営業をさせ続けられたという。
そんなありとあらゆる手段をつかって行われる松永太の独自の洗脳手法が、特に発揮されたのは、女性にである。
松永太は嫁と家庭を築き上げていたときには、すでに複数の愛人がおり、緒方純子もその一人であった。
緒方純子と不倫関係になった時には、既に10人以上の愛人がいた。
とりあえずナンパで数をうって、その中で何割かゲット出来ればいいという考えであった。
親しくなるまでは、多少、強引に誘うことはあっても紳士的に振舞い、信頼を得ていく。
だが、一旦、深い仲になると今度は女性の過去をほじくり返して、罵るという行為に及び、女性に自分が悪いという気持ちにさせて、徐々に掌握していった。
歌がうまかった松永太は、愛人の一人に『バンドをもっている。』と嘘をついたことが切欠で、ある夜、従業員を叩き起こした。
そこで松永太はいきなり音楽バンドを組んで、一か月後のクリスマスイブにライブをするから、死ぬ気で練習しろと命令。
ボーカルを担当する松永太の歌が音程から外れて、従業員の一人がそれを指摘すると、いきなり殴ってこう言ったという。
『おまえらが俺に合わせろ!』
1982年12月24日のクリスマスイブに【松永太バンド】は久留米市内の1000人収容できる大ホールを貸切り、デビューライブを行った。
しかし、それだけの大会場を借りたが、観客はたったの50人程度しか集まらなかった。
このライブは愛人の一人の為に行われていたが、実はこのライブには妊娠中の妻、そして緒方純子や他の愛人も来場していたという。
緒方純子が松永太にどっぷりと洗脳された後、ワールドで事務員として働くようになった。
嫁には既に緒方純子が愛人の一人であるとバレてはいたが、松永太のDVが怖くて反抗できなかった。
嫁や長男の目の前で、松永太が緒方純子に凄まじい暴力を奮うところも目撃。
緒方純子に因縁をつけて、暴言を吐きながら、足に集中的にカカト落としを食らわせ、更にマヨネーズを床にまき散らして舐めろと要求していたという。
度重なるDVに緒方純子が病院に担ぎ込まれた際に、不審に思った医師が警察に連絡して松永太が出頭することもあったが、持ち前の話術で切り抜けている。
1992年にとうとう、耐え切れなくなった嫁は長男を連れて、警察にDVの被害申告を出して婦人相談所の施設に逃げ込んだ。
松永太は必死に探して住民票などを辿り、嫁と子供の居所を見つけようとした。
しかし、市役所が融通をきかせて住民票を移さずに長男の学校の転校などを許可した為に、松永太には居場所を突き止められなかったという。
2か月後に嫁の離婚調停の申し立てを、松永太も折れて承諾したのだ。
この時、嫁と供に松永太の元から逃げ出した長男が現在、テレビ番組【ノンフィクション】出演して、自らの生い立ちを告白している。
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松永太の嫁が語る隠された真相とは?
松永太が逮捕されてから、福岡県外で子供と暮らす嫁は、松永太がどういう人間であったかを語っている。
嫁は松永太より年上であり、高校生のころに社会人であった嫁をバス停で待ち伏せをして、知り合うきっかけを作った。
毎日、待っていてくれる松永太に嬉しくなってきた嫁であるが、突然、もう逢えないと言いだしたりして、嫁に揺さぶりをかけて自分を更に意識する様にしたという。
結局、3年間の交際の後に松永太からのプロポーズを受けた嫁は結婚し子供をもうけたが、その頃には既にDVは始まっていたのだ。
嫁も殴る蹴るの暴行をうけて、髪の毛を掴まれて引きづり回されたりされていたという。
そして、気が済むとケロッと優しくなったり、見せつけるかの様に愛人の元に電話をしてみせたりしていたという。
それが続いてうちに辛いという感覚もなくなり、精神が麻痺していったと語っているのだ。
松永太が騙る人生のポリシーとは?
逮捕後、松永太の供述調書に残っている『人生のポリシー』がある。
私はこれまでに起こったことは全て他人のせいにしてきました。
私自身は手を下さないのです。
なぜなら、決断をすると責任を取らされます。
仮に計画がうまくいっても、成功というのは長続きするものではありません。
私の人生のポリシーに、『自分が責任を取らされる』というのはないのです。
私は提案と助言だけをして、うまみを食い尽くしてきました。
責任を問われる時代になっても私は決断をしていないので責任を取らされないですし、もし取らされそうになったらトンズラすれば良いのです。
常に展開に応じて起承転結を考えていました。
『人を使うことで責任をとらなくて良い』ので、一石二鳥なんです。
決して逮捕後に尻尾を出さなかった松永太がこの様な供述をしたのは、ある理由がある。
それは松永太の女好きをよんだ、司法当局が若手美人検察官をあてた。
その際、松永太は調子にのって、雄弁にこうした供述を彼女に行ったのだ。
実際にこの供述がその後に大きく関わったのは言うまでもないのだ。
おわりに
松永太の生い立ちや両親、嫁、会社社長であった時に、どの様な方法で関係者を支配していたのかを紐解いてみた。
人の皮を被った獣でありながら、頭脳明晰であるという、怪物ぶりが非常に目立っているわけだ。
自分の目的の為なら、人に強要することで責任からは逃れた上で、何でもするという恐るべき所業の数々がお分かり頂けただろう。
そんな松永太も2017年現在は福岡拘置所で死刑執行の時を待っているのである。