作詞家の下地亜記子が死去したという訃報があった。

 

言葉の達人との異名を冠した彼女の死因は肺がんであったという。

 

北島三郎などの大物歌手の作詞を手掛けた下地亜記子の経歴などを紐解いてみよう。

 

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下地亜記子の死去と死因

作詞家として名高い下地亜記子は
15年前に肺がんを患い、肺の一部を手術し切除していた。

 

昨年の春頃には再び肺がんを発症し、
余命は2015年内に費えると告知されていたようだ。

 

しかし、作詞の創作で己を奮起しており、
2016年中は何と20曲以上の作詞を手掛けていたという。

 

しかし先々月に自宅で足を骨折したことにより入院し、
退院後は自宅療養をしていたが、
11月17日に長男に看取られながら死去したそうだ。

 

享年72歳。

 

下地亜記子の経歴

下地亜記子は1955年12月5日に三重県で生まれた。

 

学校を出てから上京し、最初は学習研究社(学研)に就職した。

 

後に、コピーライターに転身。

 

その後はデザイン編集の会社を設立し、
その後に結婚と出産をしたものの離婚。

 

子育てと仕事を両立する為に、
作詞を学び、1983年に
東京ロマンチカの楽曲【また逢えるような顔をして】の作詞を手掛けてデビューした。

 

その後は北島三郎を始めとする
演歌の楽曲の作詞を手掛けており、
演歌界の作詞家の代表的な一人としても名高い女性だった。

 

下地亜記子の作詞楽曲の一覧はコチラをクリック

大物歌手の作詞をかなりの数、
手掛けているということで、その才能が惜しまれるところだ。

 

上記の楽曲は代表的なものであり、
作詞を手掛けた作品はほか数十曲あることが
分かっているが割愛させてもらった。

 

次は下地亜記子が作詞家になった経緯について見てみよう。

 

下地亜記子が作詞家になった経緯

下地亜記子が作詞家になった理由は、離婚を経験したことにある。

 

子供がまだ小さい内に離婚してしまった為に、
自宅にいながらにしての収入源を確保しなければならかなったからだ。

 

また作詞家という道を学び、
それを目標にした理由として、以下の様なコメントを生前、出していた。

最初シナリオライターになりたくて勉強していたのですが、
長いものより、凝縮した短い詩の方が自分に向いていると思ったから。

なかなか深い想いを感じさせる心情である。

 

また、作詞家で大成したい卵の人間にも
熱いアドバイスを送っていたのが印象的だ。

夢が叶うまでやめないこと!! すべての成功への基本です。
とにかく一杯書くことです。勉強していた一時期、私も一日一篇、一年間続けました。

やはり、努力に勝る天才は無しといったところか。

 

作詞家の下地亜記子の言葉は、
どんな世界のどんな業種にも通ずると感じるが、いかがだろう?

 

まとめ

2016年の日本作詞大賞では
ノミネート作品のうち2作品が下地亜記子の作品である。

 

下地亜記子が死去する際に
看取った長男は母のことをこうメディアに告げている。

最後まで創作意欲は衰えずに、仕事の電話をしていた。作詞という仕事が大好きな母でした

命が潰える最期の時まで、作詞を愛していた下地亜記子のご冥福をお祈りしたい。

 

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