平尾誠二は同志社大学時代に驚異的な戦績を叩きだしていたことで知られています。
日本ラグビー史上として最年少で日本代表に選ばれる等の輝かしい経歴を携えてからも、その活躍ぶりは素晴らしい。
今回は平尾誠二の同志社時代をメインに綴っていきましょう。
平尾誠二が同志社大学に進学する前
平尾誠二は京都の公立学校である伏見工業高等学校に進学してから、一気にラグビー選手としてのブレイクスルーを果たしました。
伏見工業高校のラグビー部の監督は、元日本代表の山口良治であり、現在は名伯楽としても名高い。
山口の元で過酷なスパルタとも思える練習に励んで、高校3年生になった平尾誠二は1981年の全国高校選手権大会で優勝に貢献します。
この伏見工業高校のラグビー部をモデルにしたドラマが、山下真司が主演したドラマ【スクール☆ウォーズ】なのです。
平尾誠二が語る山口良治の厳しさ
生前の平尾誠二が語る伏見工業高校ラグビー部の厳しさは並大抵のものではなかったそうです。
山口良治監督の練習は並みのきつさではありませんでした。あの練習を我慢できたら、世の中でおこる大抵のことが我慢できるという位のきつさでしたね(笑)。
山口良治は後年、涙もろい弱い監督という印象が根強く残りましたが、やはり強い選手を育てる為ならば、鬼になれる厳しさもあったようですね。
ちなみに平尾誠二が指導者になってからも恩師として崇める山口良治は、京都一のワルと呼ばれた山本清悟というラグビー選手の恩師でもあり、ラグビーを通して更生させたという。
平尾誠二がいた頃の伏見工業高校ラグビー部は、ドラマ【スクール☆ウォーズ】そのままの光景があったようですね。
平尾誠二の同志社大学時代
伏見工業高校で過酷なラグビー生活を送った後、卒業後は同志社大学商学部にすすみ、大学ラグビーの雄として鳴り物入りで入部した。
この時には史上初となる最年少日本代表ラグビー選手になっていた平尾誠二。
同志社大学のラグビー部時代にはセンターであり、ここでも史上初の記録を打ち立てる。
ラグビー大学選手権で同志社大学ラグビー部は3連覇をするという覇業を成し遂げたのだ。
当然、この覇業の立役者は平尾誠二の貢献があったからといっても過言ではない。
1985年1月15日にはラグビーの名勝負として知られる新日鉄釜石ラグビー部と、平尾誠二率いる同志社大学ラグビー部との一戦。
この試合は惜しくも新日鉄釜石ラグビー部が勝利しましたが、平尾誠二の活躍はここでも注目されたのは言うまでもない。
平尾誠二の同志社大学のエピソード
平尾誠二は実はラグビーは同志社大学までで辞めようと思っていた事を後に語っていました。
その時のことをこう語っています。
ラグビーは大学まででやめようと思っていたので、そんな事は全然考えていませんでした。
大人になったらラグビーとは違った、自分にしか出来ない仕事をしたいと思っていたので、大学を卒業してイギリスに留学したんです。
平尾誠二はラグビーもさることながら、デザイン関係にも興味があったので、将来はそちらに進むことを考えていたようだ。
ラグビーはアマチュアでやっていき、本業はデザインという将来設計を立てていたようだが、ファッション誌の取材を受けた時に雑誌の表紙になってしまっていたことが問題となった。
それはアマチュア資格のルールに反したものだったそうで、誤解を解く為に再びラグビーに取り組むことになったそうだ。
その時に神戸製鋼からの強いオファーをもらい、結局、デザインの道を諦めて、ラグビー道を突き進むことになったそうだ。
過酷な練習を紆余曲折を経て、若くして華々しい伝説を作り上げた平尾誠二がそこにはあったようです。
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