瀬戸内シージャック事件は、かつて日本を震撼させた大型客船【プリンス号】が20歳の青年に乗っ取られた事件です。
犯人の名前は川藤展久(かわふじのぶひさ)と言い、大阪府警の狙撃手に撃たれて、息を引き取りました。
犯人の川藤は何故、この様な犯行に及んだのかの動機と彼の生い立ちを紐解いてみましょう。
瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の生い立ち
川藤展久は1949年(昭和24年)に岡山県児島市下津井町で生まれました。
現在は倉敷市下津井と名前が変わっている町で船員として生計を立てている父親の子供として生まれました。
母親は新興宗教にどっぷり浸かっており、その影響で家庭を顧みなかったという。
家庭に保護者が事実上いない環境で育った川藤展久は、子供ながらに自由気ままな生活をしていた。
小学生の頃から悪童として知られており、授業を中抜けしたり、お金が無いのに電車などに無銭乗車したりしていた。
また窃盗などの軽犯罪をおかしており、小学校の教師たちからは問題児として扱われていた。
中学に入ると更に素行は悪化し、たった半年で不登校になり、家出。
地元から離れて福岡県から千葉県という広い範囲で放浪生活をしていた。
そば屋やパチンコ店でアルバイトをしたり、工場の作業員やヤクザ紛いのことをして食い繋いで生活していたという。
事件を起こす20歳になるまでに、度々、警察の厄介になり、施設や少年院などの出入りを繰り返す札付きのワルであった。
瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の性格
川藤展久の通っていた小学校には、彼の内面を教師たちが分析した記録が残っています。
それによると、川藤は自己統率力(セルフコントロール)が極端に弱く、誘惑にめっぽう弱く動かされやすい。
善悪の判断力が極めて乏しく、対面した人間の顔色をうかがい機嫌をとり、欺く気質が見て取れる。
また自分の気に入ったことしかしない性格の持ち主で、非行、不良化の素質が充分みてとれるという記録が既にあったのです。
小学生の頃から、ここまで性格が歪んでいた事が他人から見破られていたというのは、考えてみると恐ろしいことです。
分かっていながら、こうした少年がエスカレートしていくのを止められなかった、地域の大人達にも問題があるように感じたりもします。
瀬戸内シージャック事件の切欠と動機は?
1970年(昭和45年)5月11日。
札付きのワルとして当時、つるんでいた少年2人と乗用車を盗んで、車を走らせていた川藤。
山口県の国道に差し掛かった時に検問所にひっかかり、車を警官に調べられることになった。
程なく福岡市内で盗まれた車であると判明し、連行される川藤と少年2人は連行途中に隠し持っていた武器で警官を襲い重傷を負わせる。
仲間のうちの一人はそのまま逮捕されたが、川藤ともう一人の少年はそのスキに逃亡をはかり、広島市内に逃亡。
翌日の12日に警官に見つかった川藤と少年は以前から隠し持っていたライフルを突き付けて、通りかかった軽自動車にのる一般人を人質にして抵抗。
川藤と少年は警官からピストルを強奪し、人質をとったまま逃走したが、逃走の最中に仲間の少年は逮捕。
一人になった川藤展久はそのまま広島市内で営業している以前から知っていた鉄砲店に押し入って、ライフルとショットガン、実弾380発を強奪。
鉄砲店から出た川藤はタクシーで瀬戸内海への船が数多く停泊している【宇品港】へ行き、銃を振りかざしながら観光船【ぷりんす号】を乗っ取った。
瀬戸内シージャック事件の微妙な動機
川藤展久は少年時代から素行の悪い男であり、その行動は常に計画性がないものばかり。
瀬戸内シージャック事件を起こした動機というのも、元の切欠は乗用車を窃盗したことがバレた為に警官を襲ったことに端を発しているわけです。
警官を襲ってしまったら、もうタダでは済まないことは、数々の蛮行を行ってきた川藤は分かっていたのでしょう。
また事件を振り返った犯罪心理学などの専門家の意見では、瀬戸内シージャック事件が起きる2ヶ月前に起きた事件が関係しているという見方もあります。
それは日本赤軍による【よど号ハイジャック事件】がアウトローとしてうだつの上がらない生活をしていた川藤展久に影響を与えたという。
あながち、否定は出来ない仮説ではありますね。
川藤にはもしかしたら日本赤軍によるハイジャックが、カッコよく見えていたのかも知れません。
瀬戸内シージャック事件の犯人・川藤展久の最後の謎の言葉
川藤展久は大阪府警の狙撃手に【ぷりんす号】の船外で撃たれ、病院に搬送され息を引き取りました。
この事件は当時の警察にも罪があるとして、何と川藤を狙撃した警官と命令を出した広島県警本部長・須藤博忠氏が裁判にかけられるという事態を呼びました。
もちろん無罪判決をうけた警官と本部長ですが、非常に問題の多い事件として日本の犯罪史上、インパクトがあった事件として知られています。
そして、この事件が何かの拍子に取り上げられるときに言われる犯人・川藤展久の最後の言葉は何を呟いていたのか?ということ。
狙撃される前の川藤は船外にいる警察に向かって何かを叫んでいました。
この映像は残っているものの、何を言っていたのかは分からないままに事件は終息を迎えました。
狙撃直後に崩れ落ちた川藤展久は
死んでたまるか・・・もう、いっぺん・・・
と、激しく自分の意識を失わないようにもがいていたという。
これは【ぷりんす号】の船長であり、傍にいた人質の中向船長が後に証言していました。
そして、一番の謎として語り継がれている川藤が船外の警察に向けて叫んでいた内容。
音声が無くても、現在のコンピューター読唇術によって、口の動きの映像解析で明らかになっています。
もう許さないぞ! 明日、銃でやってやる!