緒方純子は現在は福岡拘置所・女子房で無期懲役の罪に服している。
生き残った親族や関係者に手紙を送り、贖罪の日々を送っているが、その生い立ちはあまりにも悲しすぎる様子だ。
今回は緒方純子の生い立ちから現在を一挙、まとめてみましょうか。
緒方純子の現在について
緒方純子の現在は、実は非常に穏やかであるという事実がある。
事件のあまりの凄惨さに、松永太同様、多くの糾弾が起きたわけだが、同情する声も少なくない。
緒方純子は服役してからの生活は、松永太との生活に比べれば天国であると述べている。
トイレにも自由にいけて、食事も摂れる生活を営めている。
松永太と供に行動していたときは、睡眠や食事、排泄といった人間の営みの全てが制限されていたからだ。
お風呂にも入れるし、本も読めるという当たり前のことに、非常に幸せを感じているという。
松永太の支配下にあった時は、全ての行動を制限されて許可をとらなければならなかったからだ。
本来、当たり前にあるものが奪われるというのは、精神的には非常に重圧を被ることになるのは当然だ。
今は日本中から旦那や恋人から凄まじいDVを受けている被害者の相談に乗っているのだという。
遠方からわざわざ緒方純子に面会を求めて話に来る女性もいるという。
相談は手紙でのやり取りも行われており、お互いに励まし合って生きているというのだ。
2007年末から、こういった活動をしているそうで、現在も続いている。
緒方純子の現在の松永太に対する気持ちは?
緒方純子は同じ拘置所にいる松永太に対しては、怒りはあるものの、憎しみはないという。
しかし、それは愛情ではなく、哀れみの気持ちから来るものであるそうだ。
それは、松永太には逮捕後、半年の時間を擁して、自分は洗脳されていたことを自覚出来たからである。
一番、近くにいたからこそ分かる緒方純子だから言えることであるが、松永太は人を信じる気持ちがない猜疑心の塊の様な男であったと振り返っている。
だからこそ、嘘をやめて、正直に全てを話して欲しいと切に願っているという。
そして、人を信じる心を取り戻してほしいと述べているのだという。
緒方純子は現在も手紙を送り続けている
こんな私でも生きてていいんだと実感し、困っている人の役に立てることを見つけた緒方純子。
そして、相談者だけではなく、残された数少ない親族にも手紙を送り続けて、贖罪の気持ちや蘇った愛情の心情を手紙につづっている。
松永太との間に出来た子供にも手紙を書き続けており、それは4年間で21通もの数の封書が息子に届けられている。
手紙の内容は、息子に対する母として、謝罪や身体を気遣う内容である。
息子が公開した手紙には、女性らしい文面とイラストが描かれており、一見すると愛情に富んだ母親が子供に宛てたラブレターそのもの。
しかし、その息子は今でも緒方純子に対しては憎しみを向けていることが、現在、明らかになっている。
緒方純子の手紙をもらってから息子は・・・
ノンフィクションで自らの生い立ちを語った松永太と緒方純子の息子。
手紙をもらっていたことを告白し、その後に緒方純子が収監されている拘置所に面会に現在までに10回ほど訪れていることを語る。
緒方純子は息子さんに対して、自分が何も出来ないことを悔んで、謝罪をするものの、その気持ちが息子さんに届かないのは当然である。
それまでにされてきたことや言われてきたことが残っていいる状態で、緒方純子からの手紙をみて『実際、そうじゃないだろう?』という気持ちになっていた。
息子さんが恨んでいる母親に面会に行く理由は、その本心を知りたいからであるという。
しかし、当たり前ではあるが、両者の気持ちは行き違う。
緒方純子は『苦労ばかりかけて、親らしいことを何もしてあげれんで、申し訳ない。』というが、息子さんは『それを今、そんな場所から俺に伝えて何か出来るの?』という。
息子さんは”『人間、誰だって言うだけやったら、何でも言えるし、誰でもいえる。 建前やありきたりな言葉を言うのは、すごい狡い。』”
緒方純子はそんな息子さんに対して”『私が死ねばいい?』”といったが、それに対しての息子さんの返答は・・・。
”『苦しんで生きろ。』”
死ぬとか最大の逃げだと思う息子さんは続けて
”『自由がきかん、その環境で、苦しんでもがいて生き延びろ!』”
と告げたという。
母親の想いが子供に届くことは、今後はなさそうに見える。
分かち合う日はいつ来ることになるかは、誰にも分からない。
緒方純子の生い立ち~生誕から社会人まで~
緒方純子は1962年2月25日に、福岡県久留米市安武町で生まれた。
生まれ育った土地はのどかな田園地帯が広がり、近所は同じ緒方姓を名乗る親戚ばかり。
一帯は代々、緒方一族の土地であり、その集落の中でも一番の立派な屋敷が緒方純子の実家であった。
祖父は元村会議員を務め、父親は農協の関連組織の副理事長を務めている地元の名士。
母親は同じく久留米市の大きな農場を持つ名家の出。
地元の名門高校を卒業後に、父親と知り合い1963年に結婚した。
緒方純子が生まれ、3年後の1965年1月26日に妹が生まれた。
近隣住民の緒方家に対する評判は悪いものは一つもない。
緒方一族にはグレる人間は一人もいなかったし、特に緒方純子の実家は一族の中でも抜群に評判が良かった。
特にそれは緒方純子の父の影響であり、農協関連組織の副理事長を務める傍ら、労働組合の執行委員長をするほどに人望に優れ、抜群に仕事が出来た人間であったという。
母親も民間企業に仕事に出ており、朝には夫婦で農作業をしていたといい、夫婦仲は良好そのものであったという。
真面目一本やりの父と母には厳しく躾けられたものの、緒方純子と妹もそれに習うかのように、堅物で真面目な生き方を歩んでいた。
学校の規則を破ることは無く、きっちりと制服を着て勉強を真面目にこなして、両親の期待に応える様に大人になっていった。
緒方純子は短大卒業後に、幼稚園の教諭になり、妹は専門学校卒業後には、歯科衛生士になったという。
職場での評価も非常に高く、幼稚園の園長からの信頼も厚かった。
緒方純子は生い立ちを崩す電話・・・
1980年夏、短大に入ったばかりの緒方純子の元に、一本の電話が届いた。
『高校の時に君から借りていた50円を返したいんです。』
松永太からだった。
全く身に覚えがなかったし、高校の時は仲良くもなかったが、松永太と電話越しに話しているうちに誘いにのっていまった。
待ち合わせ場所にいくと、松永太は高級車に乗り、お洒落な服装とハンサムなルックスで笑顔を浮かべて、緒方純子を迎えた。
50円の話は口実であり、卒業アルバムを見ていたら惹かれて会いたくなり電話してしまったという松永太。
喫茶店で談笑したものの、緒方純子は警戒心を強くもって、喫茶店を出た後はすぐに別れた。
一年後、再び松永太から電話があった。
緒方純子は松永太のしつこさに負けて出かけたが、帰り際に車の中で強引にキスを求めてきたという。
とっさに松永太の顔を平手打ちすると、急に大人しくなり、緒方家の門限に合わせてちゃんと送り届けてくれたという。
その後、しばらく全く連絡が無かったものの、再び『久しぶりに会いませんか?』という松永太からの電話があった。
この頃には既に松永太は結婚していたが、緒方純子は男性と交際したことは無く、キスすらしたことがなかった。
その日に松永太に処女を捧げた緒方純子は、2ヶ月後の1982年12月24日のクリスマスイブに、自分のライブに招待された。
松永太は緒方純子にも商売だけではなく、音楽でもプロ並みであるとうそぶいていたのだ。
それを信じてライブ会場にいくと、緒方純子は妊娠した松永太の妻をみてショックをうけた。
その後も何度も松永太の誘いにのっては関係を続けてきたが、さすがに罪悪感を抱いていた緒方純子。
不安を打ち明ける度に松永太には、こう言いくるめられていた。
『本当に結婚したいのはおまえと。 妻とは近いうちに離婚するつもり。』
『おまえとデートしているのを見られると、誰かに見られて妻にバレたら離婚出来なくなる。』
『妻が妊娠しているが、あれは俺の子供じゃない。』
全部、嘘であることには気づいていたが、それ以上に松永太を愛してしまっていたのだ。
そして、ついに二人との間で結婚話が持ち上がった。
松永太は
『離婚が成立したら、結婚をして欲しい。』
『俺が仕事を辞めて、緒方家に婿養子に入ってもいい。』
熱いその気持ちを緒方純子は信じた。
緒方純子の生い立ちが悲劇に・・・
真剣に結婚を考えるようになった二人であるが、緒方純子と松永太の不倫関係が両親にバレてしまった。
厳格で世間体を重んじる両親は、すぐに別れる様に詰め寄って来た。
しかも、松永太は緒方家の資産状況と、母親が他の実家の資産も調べていることを、叔父は分かっていたという。
松永太はそれを知り、激高し両親に会わせろと緒方純子に詰め寄った。
料亭で母親と緒方純子、松永太の会談がもうけられたが、緒方純子の心配をよそに松永太の態度は違った。
恐ろしく腰を低くし、丁寧な言葉遣いと礼儀で母親に接し、純子への愛が本物であることを熱く語った。
更にはジョークを飛ばして、堅い雰囲気を和ませて、一気に母親の不信感を取り除いた。
後日には父親も交えて、会食をし松永太はここでも好印象を与えて、緒方純子の両親の信頼を勝ち取ったのだ。
既にこの時には母親の方が、早く離婚して純子と結婚してくれと懇願する状態になっていた。
ところが松永太はここで態度を急変し、離婚をしぶるようになった。
音楽の事務所からお誘いがあったけど、緒方家に入る為に断ったとか、事業を立ち上げたときに嫁の父から資金提供をしたから、別れたいけど別れられないなど。
そして、ついにDVがはじまり、更には緒方純子の過去をほじくり返して、嘘をついたと勝手に決めつけて精神的にも追い込んでいった。
緒方純子の生い立ちが地獄そのものに!
緒方純子はこの時には松永太の恋人ではなく、既に下僕と化していた。
松永太に言われるがままに身体に、印をいれるようになったのも、ただ松永太に信じて欲しいだけの気持ちからだった。
幼稚園の教諭も辞めてしまい、言われるがままに松永太の会社の事務員として働くようになる。
更に緒方純子は家族や親類、友人に電話をかけて、わざと相手に喧嘩をふっかけては関係を自分から断つ行為をするようになった。
それも松永太の指示でやったことであり、こうすることで緒方純子の意識をもっと自分に向けさせる為のことである。
松永太の言うことを聞き続けて、切りたくもない人間関係を自ら切ってしまった緒方純子は心身ともにピークに達していた。
しかしそれは松永太を恨むわけではなく、自己嫌悪感から来るものであった。
そして緒方純子は自ら命を断とうするものの、家族に発見されて一命をとりとめた。
これを機会とばかりに松永太は緒方純子の両親や姉妹などに懸け合い、更に自分を信用させる手段に出た。
世間体などを異常に気にする純子の家族は、松永太の言われるがまま、純子より松永を信用して何の助け舟も出そうとしなかった。
完全に松永太によって、緒方純子は社会からも家族からも完全に孤立させられる状態となった。
この頃に松永太はより緒方家に入り込む為に、何と純子の母親と肉体関係を持った。
更にはその後、純子の妹とも肉体関係をもつようになり、緒方家を徐々に侵食していった。
緒方純子の生い立ちが消えていく・・・
1992年に松永太は嫁と離婚をして、実質的に緒方純子は事実婚の状態になる。
この時に松永太の子供を既に身籠っており、堕胎をすすめられたが、それだけは言う通りにはしなかったという。
ここから松永太は緒方純子にありとあらゆる詐欺を行ってお金を引っ張ってくるように仕向けた。
しかし、供に詐欺行為をしたことで緒方家と深い関係にある市議が疑いだし、更には松永太は柳川信用金庫の支店長を脅迫し、構内の机を叩き壊した。
支店長は告訴に踏み切り、松永太と緒方純子に脅迫と器物破損、別件での詐欺の逮捕状がでた。
しかし逮捕される前に松永太は経営している会社を負債金額・9000万円抱えたままで倒産させた。
そして、緒方純子と供に石川県に逃亡してすぐに北九州市小倉にやってきた。
警察を指名手配をかいくぐって、時効まで逃げ切る決意を固めたという。
ここから二人は新たに自分たちの言うがままに出来そうな人間を取り込んでいく。
増え続ける金主・・・
松永太は金ヅルのことを金主と呼んでいた。
逃亡資金を稼ぐ為には、新たな資金源が必要だったが、会社もなく表立って動けない松永太は知り合いや元従業員をターゲットにした。
1人目の金主
倒産させた会社・ワールドの従業員の男性は松永太に頻繁に暴力を受けており、母親からお金を送金してもらうように脅されていた。
送金がないことを言うと、松永太に激しい暴行を受け続けたために、3ヶ月後に二人の前から姿を消した。
2人目の金主
松永太は元の彼女に連絡をとり、金主に仕立て上げた。
既にこの彼女は家庭を築いていたものの、久しぶりに連絡を受けた松永太のお金の要求を素直に受けた。
実は姑問題を抱えており、不満がたまっていたために、松永太にそんな問題を相談するようになっていた。
松永太は家を出て、自分と暮らして離婚したら自分と結婚しようというと、彼女は子供を連れて家出をしてきた。
協議離婚を申し出て、松永太のアパートに転がり込んだ彼女であるが、そこから松永のDVの餌食になった。
結局、子供の養育費だのと因縁をつけられて、彼女は前の旦那や親にお金を借り出して、結局、1800万円を松永太に手渡している。
お金が引っ張れなくなると松永太は彼女へのDVをエスカレートさせて、自ら命を断たせるようにしむけた。
結局、この彼女は大分県の別府湾に身投げしてしまう。
次の金主が北九州監禁殺人事件の発端となっていく人物である。
続きはコチラの記事より
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緒方純子の現在と生い立ちのまとめ
緒方純子の生い立ちは途中までは、非常に堅実な人生が待っている筈のものであった。
だが、松永太のたった一回の情事から全てが狂いだしたことがお分かり頂けたであろう。
現在は刑務所の生活の方が天国で幸せといってはばからない緒方純子。
それだけ松永太との20年の間は、これ以上にない生き地獄であったことを如実に物語っていると言えよう。