昭和の大スター・石原裕次郎を支え、石原プロの大番頭として知られた小林正彦が死去。
死因は虚血性心不全で、突然の訃報だ。
小林正彦の経歴や石原裕次郎との関係などを紐解いてみよう。
小林正彦とは?
『コマサ』『大番頭』と呼ばれ親しまれた小林正彦は元石原プロモーションの専務。
石原軍団を陰で支えた男であり、かつて石原プロが倒産の危機を迎えた1972年、負債の返済の為に3億円を集めた逸話は有名。
『銭ゲバ』と呼ばれ、誹謗中傷が小林正彦にはつきものだったが、コマサの力があったこそ石原プロは安定経営出来たとも言われている。
小林正彦は1936年1月1日に三重県で生まれた。
日活ホテルのフロントボーイだったが、飲食代を支払わなかった外国人プロレスラーをねじ伏せてこらしめる等の武勇伝を持つ有名人だ。
プロレスラーとのいざこざで、日活撮影所に異動させられた時に、石原裕次郎と渡哲也と出会う。
ここから、大番頭・コマサこと小林正彦が本格的に花開く。
小林正彦と石原裕次郎の関係
日活撮影所での小林正彦の仕事ぶりを、石原裕次郎が気に入り接触。
1965年に小林正彦は石原プロに入社した。
そこでの石原裕次郎と小林正彦、そして渡哲也との関係は『奇妙な三角関係』と周囲から言われていた。
小林正彦は渡哲也には強かったが、渡哲也は石原裕次郎に強かった。
そして石原裕次郎は小林正彦に強いという、まるで蛇と蛙と蛞蝓(なめくじ)の様な三すくみの関係だったとも言える。
石原プロが倒産の憂き目にあった1972年、石原裕次郎が会社を潰さない為に、成城の自宅を売りに出そうとした時に、それを止めたのが小林正彦だったという。
ヨットに乗って、外国に行って、カッコイイ服を着ているのが石原裕次郎なんだ
と、小林正彦はいい、石原プロの借金3億円を小林正彦が工面したという。
石原プロの大番頭・コマサこと小林正彦
石原裕次郎が病院での検査で肝がんの診断結果を受けた時に、それを最初に知ったのは小林正彦。
このことはボスには言えないし、言わない(ボスとは石原裕次郎のこと)
石原裕次郎が病に倒れたと知ったマスコミに対して、連日の会見を行っていた。
小林正彦の頭の中にはいつも、石原裕次郎をどうやって輝かせるかがあったのだという。
1981年に石原裕次郎が動脈瘤から一時的に回復した際、有名な報道へのアピールシーン。
慶応病院の屋上のあのシーンは小林正彦の提案で撮られたものだったそうだ。
ボスも奥さんも絶対できないと言ったが、
私が強引にお願いしました。裕次郎さんはファンにとっては太陽なんです。最期だからこそ、
太陽の下で裕次郎さんらしいメッセージをファンに送って欲しかった
それだけ石原プロと石原裕次郎の為に全力を注いだ小林正彦は2011年に石原プロを退社した。
小林正彦の死因・虚血性心不全
虚血性心不全とは、心臓を動かす強靭な筋肉に血液を送り込む血管が、閉塞したり狭くなったりなどして、血液が全身に行き届かなくなる状態。
心臓とはそもそも1日に約10万回もの収縮と拡張を繰り返している。
所謂、鼓動はこの動作の音だ。
全身に血液を行き届かせるポンプが心臓であり、その心臓を動かす筋肉がその働きを停止したら、命はひとたまりもないということは察しが付くだろう。
以前に取り上げた前田健の死因も虚血性心不全だったが、不整脈などの持病などがある人間は、虚血性心不全の注意が必要であると言われている。
以上で取り上げたものが、小林正彦に訪れたものであり、それはあまりに突然のことであった。
2016年10月30日に亡くなっており、葬儀は既に近親者のみだけで済ませているのだとか。
石原プロモーションを支えた偉大な立役者の死は、非常に残念だが、心よりご冥福をお祈りしたい。