鹿川裕史くんという少年を憶えているだろうか?
かつて同級生たちに『葬式ごっこ』なるイタズラを受けて、自死に追いやられた子だ。
東京で起きたいじめ事件は収束を迎えたとされているが、一生、こんな酷いことを過去のものとして風化させない為にも、敢えて取り上げてみよう。
鹿川裕史くんについて
鹿川裕史くんは、1972年3月10日に生地問屋を営む鹿川雅弘さんとみどりさんの初めての子供として生を受けた。
名前の由来として『裕史』に込められた意味は、心の広い人間になって欲しいという母・みどりさんの祖父がつけたものであった。
もしも、生きていれば現在は48歳である。
後に一部の同級生や近所の人の証言によると、鹿川裕史くんの性格は明るくニコニコして、優しかったという。
身体は比較的に小さかったものの、誰とでも打ち解けられる温和な子供であった。
1984年4月に東京都中野区中野富士見中学校に進学した鹿川裕史くんであり、1年生のころは平和な中学生生活を送れていた。
しかし、2年生に進級してからが後に鹿川裕史くん自身が遺書に残す『生き地獄』と化すのである。
鹿川裕史くんに対する凄惨ないじめとは?
2年生になってからは、A組のクラスメイトと打ち解けていたのだが、次第にグループ内では使い走りをさせられる様になる。
温和で優しい性格の鹿川裕史くんは仲良く振舞っている友達に頼まれると、些細なことでも断れなかったのだと思う。
しかし、段々とエスカレートしていく。
グループ内で下校時には、他の生徒のカバン持ちをさせられたりしていった。
それを面白がった同じクラスのグループの生徒は、隣のB組やD組の生徒なども加わらせ、鹿川裕史くんに対するいじめをするようになった。
プロレスごっこと称して、技をかけられたりするようになり、さながら鹿川裕史くんは他の同級生から見ても『サンドバッグ』状態であったという。
2学期になり10月に入ると、更にいじめは陰湿なものへとなっていく。
フェルトペンで顔に落書きをされた状態で、廊下に出る様に命じられて踊らされる。
また学校机と椅子で積み上げられた空間に鹿川裕史くんは閉じ込められたりし、野球拳を強要されて服を脱がされたりなど。
野球拳は鹿川裕史くんが例えジャンケンで買っても相手の生徒は服を脱がないものであり、あくまで鹿川裕史くんを晒しものにして辱める為だけに行われていた。
程なく鹿川裕史くんがクラス内で入っていた(入らされていた?)グループはバンドを結成する。
ヴォーカルとドラムを担当することになったが、マネージャーもやるということになる。
だが、やはりやることといえば使い走りであり、先輩の3年生もコキ使われる鹿川裕史くんをみてパシリとして使っていたという。
要するに一部の生徒たちから、既に鹿川裕史くんは『何をしてもいい』存在となっていたのだった。
鹿川裕史くんのいじめに対して教師は何をしていたのか?
この当時の中野富士見中学において、非常に目立っていたと思われる鹿川裕史くんに対するいじめ。
いじめに加わっていない同級生も決して止めようとしなかったのは、おそらくは自分が標的になるのを恐れたからだ。
ならば、教師はどうなのか?
2年A組の担任であった教師・Fは、鹿川裕史くんが使い走りをさせられるようになった頃に、父親の雅弘さんに連絡をしている。
『裕史くんが仲間の使い走りをさせられているようですよ?』
だが、父親にいうだけで、使い走りをさせている生徒に強く注意をすることは無かった。
何故ならば、この教師もおとなしい性格であり、数年後には定年を控えていたから、事を荒立てたくはなかったという保身に走ったのだ。
他の教師たちもおそらくは鹿川裕史くんがグループ内でいじめを受けていたことは知っていたと思われる。
現にF教師ではないようだが、廊下で踊ることを強要された鹿川裕史くんを見つけたときに、割って入り注意をしていたりする。
だが、実際にはおそらくはA組で明るく中心的な人物であった生徒がイジメの主犯格であったこともあり、強くそれを制することが出来なかったのかも知れない。
そして、事が後にそれだけ大きくなるとは夢にも思わなかったのだろう。
ついに鹿川裕史くんが決定的に自らこの世を去ろうとする出来事が起きてしまう。
そしてそれはいじめを積極的に行った生徒たちだけではなく、教師も加担するという恐ろしいことになるのだ。
鹿川裕史くんのいじめは葬式ごっこに発展・・・
2学期も半ばに差し掛かった11月中旬。(記録では11月14日と15日)
これ以前から鹿川裕史くんは無視される対象となっており、いじめグループが何かを思いつくと相手にされるという関係になっていたようだ。
鹿川裕史くんはこの頃、スケボーをして足を負傷してしまい、そのことで遅刻することが多くなっていた。
そんな鹿川裕史くんに対して、いじめグループは悪質なイタズラを考え出した。
そして、それに周りを協力させたのだ。
2年A組のクラスにおいて、鹿川裕史くんを死んだことして、色紙に寄せ書きをする。
そして黒板の前に鹿川裕史くんが使っていた机が置かれて、牛乳瓶に差した花が供えられ、お菓子なども添えられていた。
机の中心には遺影と見立てられた鹿川裕史くんの写真が置かれていた。
遅刻をしてきた鹿川裕史くんは、遅れて教室に入ると黒板の前に置かれた自分の机を見た。
『なんだこれー!』
と、いって苦笑いを浮かべたのだが、黙り込んでしまった。
その反応を見て、おそらくはクラス中が盛り上がったのかも知れない。
色紙の内容は画像でも分かる様に
『鹿川君へ さようなら 2Aとその他一同より』
という文言中心として、クラスの生徒がそれを囲むかのようにコメントを寄せていた。
寄せ書きの中には
『バーカ』
『いなくなってよかった』
『ラッキーじゃん』
『天国にいったらパンチ』
などという酷いことも書かれていた。
そもそも、こういった悪質なイタズラに一筆を書いてしまうだけでも、既にいじめに加担しているということに他ならない。
ならば、既に2年A組には、鹿川裕史くんの居場所は無かったのだと思うし、誰も味方などはいなかったのだ。
そして、恐ろしいことに、この寄せ書きには4人の教師も参加していたのだという。
鹿川裕史くんの葬式ごっこの発端と教師が参加した理由
2年A組はこの当時は異常な状態であったとイメージがつく。
そして、鹿川裕史くんが酷い状態になっているということが日常光景として、他の生徒たちにはうつっていたのかも知れない。
11月に入り鹿川裕史くんが遅刻しがちになっていたということは書いたが、その時にいじめグループの一人が・・・
『鹿川を死んだことにしようぜ?!』
と、言い出したという。
記録によると、『笑っていいとも』のコーナーに『安産コーナー』というものがあるそうだが、これをヒントにしたという。
テレビでは安産を願ってのものだったが、これを逆にして死ぬことを強調して考えたものが、『葬式ごっこ』であった。
その際、前もっていじめグループの生徒が、教師に例の色紙を持っていき、寄せ書きに参加するように願い出る。
その中には前述した担任のF教師も含まれており、その他3人の教師が加担する。
生徒はドッキリであると強調されていたのだが、教師という立場を忘れて葬式ごっこに参加するという行為そのものが不可解極まりない。
それだけ鹿川裕史くんに対する2年A組の生徒たちの振る舞いが日常化していたということなのだろう。
この頃から既に鹿川裕史くんの父・雅弘さんはいじめを止めさせるために動いていた。
と、いうのも葬式ごっこが行われた時に、鹿川裕史くんは色紙を持ち帰り、家族に見せていた。
『これ見てどう思う? ここに先生も書いているんだよ!』
そう言っていたからだ。
鹿川裕史くんの父親の行動は届くことはなかった
父親の雅弘さんは10月頃から担任教師のFに、相談を持ちかけていた。
更にはいじめに関係しているグループの生徒やその親たちにもかけあっていた。
しかし、その気持ちは当のいじめをする生徒たちには届くことは無く、葬式ごっこが行われる。
更に最も率先して鹿川裕史くんに対していじめを行っている主犯生徒の母親に会って激しく抗議した。
『あんたの息子をよく監視してくれ。 これ以上、息子にまとわりついたら、何が起きるかわからないぞ。』
しかし、母親は『友達同士のことでしょう?』と言い返してきたという。
11月下旬になり、帰宅した鹿川裕史くんには傷があった為に、雅弘さんが問い詰めると3年生の名前を出した。
雅弘さんは3年生に抗議しに行ったが、その後、鹿川裕史くんはグループの数人に『チクリを入れた』ということで殴られる羽目になる。
もはや、鹿川裕史くんに対してのいじめは止む気配がなかったものの、雅弘さんは諦めずに何度もかけあったのだが・・・。
鹿川裕史くんに対して更に続くいじめの連鎖
葬式ごっこが終わってからも、一向にいじめは止むことは無く、更に過激なものになっていく。
11月26日、グループの中の三人といた鹿川裕史くんに対して、1年生の生徒が挑発行為に及んだ。
(おそらくグループ内の生徒が1年生に命令を出したことによる)
『おまえは弱虫だ。 俺の方が強い。』と言ってきたのだが、グループの生徒が『おまえ(裕史くん)悔しくないのか?』と言い出して、タイマン(1VS1の殴り合い)をさせられる。
11月28日には主犯Aが鹿川裕史くんに1000円を渡してジュースを買ってこさせる。
が、釣りを受け取らずに次の遊びにうつったのだが、数日後、思い出したように鹿川裕史くんに釣りはどうした?と言う。
鹿川裕史くんは『使ってしまった。』といい、それを聞いたAは南部青年館の人のいない場所に連れて行き、殴るという暴行をしている。
この一件が前述した雅弘さんが母親に抗議をする切欠となるが、それから鹿川家には電話がくる。
・・・鹿川裕史、殺してやる!・・・
と、一方的に言い切れたものだったが、いじめグループの生徒たちが報復行為をしているに違いなかった。
12月になり雅弘さんは再度、主犯生徒のAの家にいき、抗議を行っている。
その結果、12月中旬頃にはグループの中で『もう、やめようや。』という声が上がり始めた。
鹿川裕史くんにとっては悪夢であった1985年が終わり、元旦を迎えた。
グループの生徒とともに高尾山に登り、初日の出を見に行った鹿川裕史くん。
家にはグループの一人と担任のF教師からの年賀状が届いていた。
『ふろはいれよ あたまあらえよ きくもんあらえよ また来週!』と書いていたのは、グループの一人。
『謹賀新年 61年 僕こそ今年よろしくお願いします。 それより、君自身が立派な人格を持った、自己主張のできる、けじめある青年に成長することです。 おたがいにガンバロ!』とF教師は年賀状に書いている。
だが、しかし3学期になってからは、再び鹿川裕史くんへのいじめが起きる。
実際には10月頃から学校を休みがちになっていた鹿川裕史くんだが、登校すると決まっていじめが起きる。
三学期、始業式の日にも暴行をうけており、それを教頭が目撃。
教頭は鹿川裕史くんと暴行をした生徒に電話をしたが、鹿川裕史くんも暴行を加えた生徒も否定したために、教頭はこれを放置。
翌日、欠席をした鹿川裕史くんに対して、教頭も担任のF教師も『ズル休みかな』という認識した持たなかったという。
1月30日、鹿川裕史くんが最後に投稿した日のこと。
授業中であるにも関わらずに鹿川裕史くんが廊下に出ていたのを見た、他クラスの教師が教育相談室に連れて行った。
その際、その教師に鹿川裕史くんがパシリにされていることなどを打ち明けた。
その教師が担任のF教師を通じて、母親のみどりさんに連絡を取らせて学校に呼んで話したという。
その時、F教師は転校をすることをすすめたそうだが、鹿川裕史くんにはそんな気は無かったという。
その間に、いじめグループの生徒たちは、鹿川裕史くんのスニーカーを便器に放り込み捨てるという行為を行っている。
鹿川裕史くんはその日、母親のみどりさんと下校をし、その後、雅弘さんやみどりさんにいった。
『もう、いやだ・・・。』
そして、次の日の朝、鹿川裕史くんは姿を消した。
雅弘さんは池袋や新宿、音楽が好きだった裕史くんの行きそうなところは全部探したが、見つけることが出来なかった。
鹿川裕史くんのいじめを苦にした最期の時
鹿川裕史くんは家出をした後に向かった先は、父・雅弘さんの故郷である岩手県盛岡市だった。
幼い頃に雅弘さんの実家に遊びに連れてきた時のことを思い出したのだろう。
2月1日、鹿川裕史くんは盛岡市内を彷徨ったあと、国鉄盛岡駅の駅ビル『フェザン』の地下に行く。
トイレの個室にある洋服掛けのフックにビニール紐をかけた。
そして、こんな遺書を書いている。
家の人へ そして友達へ
突然姿を消して申し訳ありません
(原因について)くわしい事については
・・・とか・・・とかにきけばわかると思う俺だってまだ死にたくない。
だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。
ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ、
いみないじゃないか。
だから、もう君達もバカな事をするのはやめてくれ、
最後のお願いだ。昭和六十一年二月一日
鹿川裕史
・・・のところは特にいじめに加わった生徒の名前が書かれていた。
『フェザン』は午後21時に閉店。
館内を見回る警備員が、トイレのドアが閉まった状態を不審に思い調べると、そこに鹿川裕史くんの変わり果てた姿があった。
遺書はトイレの床に置いてあり、鹿川裕史くんのポケットには生徒手帳が入っていた。
そこから身元が分かり、すぐに雅弘さんに連絡が入ったということであった。
2月3日、鹿川裕史くんの葬儀が行われ、妹が『お兄ちゃん、行っちゃやだあ!』と棺に縋りついたという。
その後、遺体は岩手県で火葬され、遺骨は2月5日夕方に東京の自宅に送られてきたという。
その後
鹿川裕史くんがいじめを苦にして自死をしたということは、すぐにマスコミも嗅ぎつけて連日、報道される。
当然、取材対象は雅弘さんやみどりさんであるが、それ以上に教師に対する責任追及が取材を通して行われた。
中野富士見中の校長は鹿川裕史くんが自死したことに関しての原因を、取材記者に問われると
『わからないが、いじめられたことは聞いている』
『が、いじめといっても、仲間同士のプロレスごっこや、使い走りをさせられている程度だ』
と、さも事態はさほど校長が他の教諭たちから聞いている程度では、深刻な事態になるとは考えられなかったとでもいいたげだ。
取材は担任のF教師にも当然、向けられる。
記者会見が行われた席で、F教師は語った。
『屈辱感がやりきれなかったのでしょうか。 精神的にまいっていたし、どちらかと言えば気の弱い子でしたから。』
『仲間の使い走りをさせられる、一緒に騒ぎを起こさせられる、ふざけた行為を強いられるなど精神的な圧迫が主だったようです。』
『殴る蹴るは少なかった。』
『鹿川くんもニヤニヤ、ヘラヘラしていた。』
と、語ったという。
取材記者が【葬式ごっこ】について尋ねると、F教師はそれに関して答えた。
『当時、『ごっこ遊び』がはやっていたから、重視しなかった。』
と、言っている。
だが、このF教師は前述した様に定年を間近に控えている為に事を荒立てたくなかったから、強く注意できなかったというが、実はまだ伏線があった。
実は以前にF教師は主犯生徒のAに殴られて、肋骨を痛めたということがあるのだ。
それから生徒たちから所謂、舐めらている教師であったのだ。
驚くべきことに後に判明したのは、岩手県で火葬された鹿川裕史くんの遺骨が東京に戻ってきた日。
F教師は2年A組の生徒全員に向けていっていたという。
『色紙の署名はしなかったことにして欲しい。』
と、口止めを願っていたというのだ。
鹿川裕史くんが命を断ってから、生徒たちの中でも大きな動きが起きていた。
2月12日、鹿川裕史くんのいたA組の隣、2年B組で起きたことは鹿川裕史くんを持ち出して、鹿川二世と気弱な同級生に暴行する生徒が出た。
そして暴行された生徒が金物屋に走り、教師が止めにいい口論。
それを警官が見つけて、事情聴取となり、何と鹿川二世と言った暴行した生徒が逮捕されるという事態になる。
問題はいじめグループの中で鹿川裕史くんの遺書に名指しされた二人はショックを受けていた。
そのうちの一人は関西のある宗教団体の本山を訪ねたという。
加害者、学校側だけではなく、報道によって騒ぎが大きくなると鹿川家にも誹謗中傷が相次いだ。
『どうして親が知らなかったのか?』
『あの家庭なら子供が自殺して当然。』
『裕史が死んで良かった。』
などという嫌がらせの電話が来るようになったという。
結局、その後、東京都教育委員会は担任のF教師を論旨免職。
校長と教頭、そいて葬式ごっこに参加した教師ら全てを減給処分を下した。
校長と教頭も数年後に定年を控えていたが、それを待たずに依頼退職をして学校から去った。
4月になり警察は鹿川裕史くんを日頃からいじめていた16人の生徒を傷害と暴行の罪で書類送検。
6月、雅彦さんとみどりさんは東京都と区、そしていじめに加わっていた主犯生徒のAともう一人の生徒、そして二人の両親を相手に損害賠償請求を起こした。
この裁判が終息をするのは、1994年5月20日。
東京高裁はいじめの事実を認め、東京都と中野区、そして主犯生徒Aともう一人の生徒、そしてその両親らに総額1150万円の支払いを命じたという。
おわりに
以上が鹿川裕史くんに起こったいじめの内容と、事の顛末である。
葬式ごっこなどという、下劣極まりない行為をクラス全員で行い、しかも本来はイジメを止めさせる立場にある教師が参加していたという異常な状態。
こうした忌まわしい事実を決して風化させてはいけないのだ。
現在ならばいじめを起こした中心人物は、おそらくはTwitterなどで晒し上げにされて法では裁かれずとも、一般市民による見えない裁きが下されていたことだろう。
事実、いじめがSNS上にリークされて、大炎上騒ぎになるということはよくある。
生徒による教師への暴力なども拡散される時代となった為に、確実に現代においてはイジメをする少年少女は非難される対象となり悪名が轟くことになる。
だが、それが抑止力となることはなく、いつの時代も必ず起きるものが『いじめ』という陰惨で極めて多感な少年少女の魂を傷つける行為。
もしや人間の本能の中には、多かれ少なかれそういう黒い情念があるものだとさえ感じる。
これからもどこかの学校では、確実にいじめによる悲劇が起きる。
そしてそれは止められないのかも知れないが、無くす努力は出来る。
鹿川裕史くんの死をどう見るのかは人それぞれだが、こうした悲劇を思い返しながら、絶対に自分の周りではイジメを起こさせないという気持ちを駆り立てるのは必要ではないだろうか?
それこそが一個人の筆者が出来る唯一の社会貢献であると感じずにはいられない。