いかりや長介が旅立たれてから16年の月日が流れた。
昔から筆者はファンであり、現在でもドリフターズのコントや、長さんが出演したドラマを視聴する時があります。
そこで気になったのは、息子さんはどんな人なのだろう?と、いうことであった。
碇矢浩一(いかりやこういち)さんという名前で、現在は51歳であり、いかりや長介の遺した無形・有形の財産を守る為に尽力していたのだ。
いかりや長介の息子は?
いかりや長介は二人の子供がいるが、長男の碇矢浩一さんが生まれたのは1969年(昭和44年)。
浩一さんが生まれた時は、丁度、ドリフターズが破竹の勢いで大人気グループになる切欠となった【8時だョ! 全員集合】の放送が開始された年だった。
番組収録やリハーサル、その他の営業活動、付き合いなどで殆ど家に帰ってこなかったいかりや長介。
たまに家に帰って来ると、浩一さんには厳しく躾(しつけ)をする怖い父親だった。
子供の頃の浩一さんがイタズラなんかをすると、ゲンコツで叩いたりして諫めたそうだ。
そしてよく子供たちに教えていたのは
『ありがとう、ごめんなさいをちゃんと言える人間になれ。』
と、いうことであった。
当たり前のことだが、多くの人間が出来ない礼儀、けじめのつけかたを教えたのだという。
だが、厳しいだけではなく、少ない家族と過ごす時間は普通のお父さんの様に、一緒にお風呂に入ったり、遊園地などに連れて行ってあげたりしたそうです。
そして、茶目っ気のある形で『パパ』と呼ばせたりもしていた。
あまり碇矢浩一さんが子供の頃には一緒には過ごせなかったようだが、精一杯、いかりや長介は威厳を保ちつつ、深い愛情を注いでいたのだった。
そんな浩一さんが16歳になった1985年(昭和60年)の時に、長年、放送されていた【8時だョ! 全員集合】が終わる。
いかりや長介は俳優への転身を本格的に考えて、自宅でも熱心に稽古をしていた。
元々はミュージシャンであり、その後はコメディアンとなり、次は俳優として生きようとする父のいかりや長介は、最初は非常に演技が下手であった。
だが、絶え間ない努力の中で徐々に俳優として認められていく父の姿を見て、息子の碇矢浩一さんは諦めないことの重要さと尊さを教わったという。
いかりや長介を伝える息子として
息子の碇矢浩一さんは明治大学付属中野中学校に入学してから、エスカレーター式に進学。
明治大学付属中野中学校
明治大学付属中野高等学校
明治大学経営学部
1993年、大学卒業を控えた浩一さんの進路に関して、いかりや長介が進言する。
芸能界は不安定でいつ落ちるか分からない仕事だから、サラリーマンになり安定した生活を送る様にと。
浩一さんはその勧めに従って、卒業後は一流企業の森永製菓に就職した。
営業部に配属された息子の碇矢浩一さんは、社会の厳しさに揉まれながら営業マンとしての実力をメキメキとつけていった。
いかりや長介も徐々に俳優として、多くの人々から認知されてきた。
そして、1999年(平成11年)に大ヒット映画【踊る大捜査線 THE MOVIE】の出演で俳優として誉れと言える、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞する。
俳優として順調に活動している長さんと同じように、2003年には浩一さんも10年間の営業マンとしての実績が会社側から評価されて、芸能界とも繋がりがある広告部に転属。
仕事の内容もテレビやコマーシャルの制作やタレントのキャスティング業務などになる。
が、この年にいかりや長介は自分の身体がガンに蝕まれていることが分かる。
頸部リンパ節ガンだった。
2004年、いかりや長介がこの世を去ったことが切欠で、会社勤めをしながらではあるが、ある決断をする。
それは1977年当時、いかりや長介が設立したドリフターズ事務所の代表取締役になること。
会社の仕事もこなして、ドリフターズ事務所の取締役としての活動をしながら、執筆活動もするようになった。
それは2006年のいかりや長介の三回忌法要を迎えたときに思い立ったこと。
『こんなに素晴らしい親父のこと、何とか形に残して、伝えていくことは出来ないだろうか?』
厳しくても優しくて偉大だったことを息子の立場だから分かる父・いかりや長介を世間の人たちにもっと知ってもらう為に。
2006年には『親父の遺言』を
2008年には『いかりや長介という生き方』を書き上げて出版した。
息子の碇矢浩一さんは、2008年12月に大学卒業からずっと勤め上げてきた森永製菓を退職。
その後はドリフターズ事務所の代表取締役一本で生きていくことしたのだった。
いかりや長介の息子に待つ家族間の争い?
そんな碇矢浩一さんは結婚しており、息子二人、娘が二人の6人家族である。
いかりや長介が生前の頃、浩一さんの子供をさぞかし可愛がっただろう。
賑やかで平和な家庭を築きながら、ドリフターズ事務所の取締役として様々な方面で活躍している。
主な業務内容は芸能事業などを取り仕切っており、他には不動産事業も展開しているという。
浩一さんが代表取締役になる前には、家族間でひと悶着があった。
いかりや長介が亡くなった2004年3月に判明したのは、遺産の額である。
何と約4億円の資産があり、その相続をめぐっての争いだ。
いかりや長介は三度の結婚をしている。
1人目の妻である女性が浩一さんと妹のまゆみさんの実の母親であったが、1978年に離婚。
2人目の妻・恵津子さんとは1979年に結婚し、浩一さんとも過ごしていたが、1989年に死別。
3人目の義子さんとは1993年に結婚式は挙げているものの、籍は入れていなかった。
と、いうのもいかりや長介も子供二人・浩一さんやまゆみさんがおり、義子さんも前夫と死別し二人の子供がいた。
そういう理由もあったのだが、これが厄介なことになる起因だった。
入籍していない義子さんが最期までいかりや長介を看取った為に、法律的に遺産相続は難航したのだ。
義子さんは籍に入っていない為に法定相続人の資格がなく、いかりや長介の実子二人の同意が必要になる。
浩一さんや娘のまゆみさんは初めから遺産を分けるつもりであったが、前述した様に4億円もの資産がある。
・現金(預貯金)約3億円。
・目黒区に850平方メートルの豪邸。(当時の資産価値で1億5000万円)
・別荘や賃貸マンション。
・生前の作品の著作権やドリフターズ時代のビデオグラムの印税。
・大人気ドラマ【踊る大捜査】などの出演作品の二次使用料。
何しろ有形無形の資産があり、分けることが困難・・・というか不可能な状態であった。
この当時は各メディアは碇矢家は『骨肉の争い』に突入と、面白おかしく吹いていたようだが、実際は厄介なことがあったが、相続そのものは難航したものの穏便にトラブルなく行われたようだ。
いかりや長介の息子・碇矢浩一の現在は?
いかりや長介の息子である碇矢浩一さんに焦点を絞ってまとめてみた。
現在は息子の碇矢浩一さんは、執筆活動もしておらずに特に表舞台に立つこともしていない様子。
現在でもドリフターズ事務所は存続しているところからみて、いかりや長介の遺した不動産や資産の運用などをして、しっかりと守っているのだろう。
実際にはこれは非常に難しい。
親の遺産を守るということは、想像以上に息子・娘にとっては周りからのやっかみなども相まって、精神的には辛い仕事となることが多い。
おそらく浩一さんもそんな重圧をずっと感じながら、現在もしっかりと守って生き続けているのだろうと思う。
また、いずれ偉大な父であるいかりや長介のエピソードを盛り込んだ本でも書いてくれたなら良いと、長年のファンである筆者は感じている。