藤原ていが死去! 新田次郎との息子・藤原正彦の著書や死因は?!

藤原ていが死去した報道が流れた。

 

昭和を代表する小説家・新田次郎の妻であり、エッセイストの藤原正彦は息子。

 

その輝かしい経歴を振り返ると供に、死因や著書についてみてみよう。

 

藤原ていとは?

藤原ていという名前は本名であり、昔の日本を感じさせる名前である。

 

現在の諏訪二葉高等学校を卒業した後に、新田次郎と結婚し、娘・長女の藤原咲子と息子・長男の藤原正彦をもうけた。

 

1943年に新田次郎が新京の気象台に赴任。

 

新田次郎は後に小説家として大成をするが、若き頃は気象学者であった為に満州へと家族で渡ることになってしまう。

 

満州は当時、戦争の地であり、命を賭した渡航だった。

 

2年後、日本は敗戦し、満州から引き揚げ帰国を娘と息子を連れて帰国した。

 

満州での体験をもとに綴った小説【流れる星は生きている】を書き、これが後にベストセラー小説となった。

 

作家・藤原ていの誕生である。

 

1982年にはTBSの連続ドラマにもなった同小説は昭和の名作として、現在も評価が高い。

 

その後は読売新聞のコーナーである【人生案内】の回答者となり、13年間続けた後に、認知症を患い引退した。

 

藤原ていと新田次郎

藤原ていの旦那である新田次郎の本名は藤原寛人(ひろと)といい、数々の文学賞を受賞している昭和を代表する作家の1人だ。

 

現在の東京電機大学を卒業した後に、藤原ていと結婚し二人の子供をもうけた新田次郎は気象学者として満州に渡る。

 

そこでの生活は苦難に満ちており、赴任された気象台の混乱や住まいは痛んでいたりと、大変な困窮ぶりを極めていた。

 

帰国後、妻の藤原ていがベストセラー小説を書きあげ、生活費が稼げることを見た新田次郎も作家活動を目指すようになる。

 

気象学者としての仕事もしつつ、作家活動もしており、1956年【強力伝】で第34回直木三十五賞を受賞し、作家としての地位を確立した。

 

その後も多くの賞を受賞し、1980年2月15日に心筋梗塞で死去した。

 

藤原ていの息子・藤原正彦

作家として大成した藤原ていと新田次郎の息子・藤原正彦は現在もご存命であり、職業は数学者兼エッセイストである。

 

著名な数学者であるが、実は奇行が度々、取りだたされていたことでも知られている。

 

ストリーキングが流行った昭和の時代に、その流行に流されたのか、自身もアパートから全裸で飛び出したエピソードがあり。

 

また、大学の研究に没頭するあまり、家庭を嫁に任せっきりだったことで、次男のイジメにも『武士道精神で戦え』と無責任なことをいって、却って嫁にたしなめられる。

 

晩年はお茶の水女子大学の教授を務めて定年退職をした後は、講演や週刊誌にコラムの連載をし、現在に至る。

 

藤原ていの著書と死因についてのまとめ

藤原ていの著書は以下の通り。

1949年 『流れる星は生きている』

1950年 『灰色の丘』

1971年 『生きがい論』

1971年 『いのち流れるとき ひとりの女として妻になる才覚』

1972年 『赤い丘赤い河 十字架を背負って』

1977年 『果てしなき流れのなかに』

1981年 『かぎりなき日々に』

1981年 『旅路 自伝小説』

1981年 『わが夫新田次郎』

1982年 『妻として母としての幸せ』

1984年 『生きる 藤原ていエッセー集』

1985年 『たけき流れに』

1987年 『家族』

1989年 『運命』

1993年 『あなた、強く生きなさい。』

1993年 『絆』

藤原ていは御年98歳での大往生となったわけだが、死因は老衰という最も美しい最期であったようだ。

 

昭和を代表する作家・新田次郎の道を決めたのは、紛れもなく嫁であった藤原ていの著書が切欠であった。

 

そして、現在も活躍している息子の藤原正彦には、確実に藤原ていの文才が受け継がれているからこそ、文学者として評価を得ているのだろう。

 

心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

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