二上達也 九段が死去したことが明らかになった。
元日本将棋連盟の会長であり、プロ棋士としてその実績は神レベル。
最強棋士の羽生善治の師匠としても知られる二上達也を取り上げてみよう。
二上達也の経歴
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訃報 二上達也九段二上達也九段 (84歳) が2016年11月1日19時頃、肺炎のため茨城県牛久市内の病… pic.twitter.com/3nzHvIDiln
— すすす@孫ください (@eggplant_3) 2016年11月4日
二上達也は1932年1月2日に北海道函館市の裕福な家庭の末っ子として生を受けた。
しかし、戦後の農地改革で一気に貧乏な家庭となってしまった。
母と父は幼い時になくなり、学生の頃は全てを忘れるかの様に友人達との将棋に没頭する様になる。
アマチュア棋士の詰め所で、指導を受ける様になった二上達也は17歳の頃にはアマ名人戦・北海道大会で準優勝。
ちなみにこの時の優勝した島田永信は、二上達也がプロとなる切欠を作る人物でもある。
プロの棋士になりたいと思っていた二上達也に対して、シベリア戦争に従軍して帰国後に英語教師をしていた兄からは反対をした。
既にこの時は兄が二上家の親代わりであったからだ。
しかし、北海道大会で対決し二上達也が敗北した島田永信は二上達也の兄と面識があり、説得を重ねて、二上達也は当時、日本将棋連盟会長の渡辺東一の内弟子になり、上京を果たした。
プロ棋士の門を叩いた二上達也は現在も尚、破られていない驚異的な記録を保持している。
それは入門から八段までたった6年で登ったという最短記録である。
当時の将棋界の最強棋士は大山康晴がタイトルを総なめにする程の圧倒的な強さを誇っていた。
初対戦は1959年であり、1966年の5年間の大山康晴との対局成績は45勝116敗と負け越してはいるが、大山康晴のタイトル総なめを二度食い止めたのは二上達也ただ一人である。
弟子の羽生善治との関係
若き棋士が台頭していく中で、次第に勝てなくなってきたが、1980年度の第37期棋聖戦で14年ぶりにタイトルを獲得した。
3連覇をするも、若い棋士たちにそのタイトルを奪われる様になっていき、1988年頃に引退を考え始めたという。
この頃には既に後の最強棋士となる羽生善治は二上達也の一番弟子であり、1989年では公式戦で羽生善治と対局。
この対局で弟子の羽生善治に敗北した時に、引退を決意し棋士としてのキャリアを終わらせた。
棋士として若き棋士と対局をしていたが、将棋連盟の理事職もしていた二上達也は、将棋会館の建設などにも尽力していた。
あの大山康晴は日本将棋連盟会長になっていたが、大山康晴の連盟方針に不満を持つ、中堅や若手の棋士が高まっていた。
その結果、大山康晴は最高顧問になり、二上達也が日本将棋連盟会長に就任した。
その後は女流棋士の世界を活性化させたり、国際的に将棋を普及させようとする活動を積極的に行っていた。
2016年11月1日の午後19時頃に茨城県の病院で死去した。
享年84歳。
一番弟子だった羽生善治は
師匠として将棋連盟会長としていつも大きな存在でした。将棋界に遺して頂いたものを大切に繋いで行きたいと思います
と、追悼のコメントを述べた。
日本将棋界連盟会長として、後進の棋士や未来の将棋界の為に尽力した巨大な星が亡くなったことは残念で仕方が無いだろう。
心からご冥福をお祈りしたい。