神山繁は亡くなる直前まで、京都で療養していたという。
京都とは最初の嫁と出逢ったゆかりの地であり、その後はドリフターズで後に名優となった、いかりや長介と熱い親交があったという。
神山繁の知らざれるエピソードを紐解いていこう。
神山繁が京都に拘っていたのは
神山繁は広島県呉市の出身であるが、晩年は京都に住んでいた。
1987年に供に舞台で共演をし、結婚した嫁の文野朋子と死別。
その後は京都に移り住むようになった。
俳優活動からは離れていたものの、京都には東映の撮影所があったことから、移り住んだと思われる。
当時は神山繁は東映の映画や、テレビ時代劇に起用される仕事が多かったからだろう。
そこで出逢ったのが、再婚した女性であり、場所は太秦映画村だったという。
再婚した女性は過去に結婚歴があったそうで、当時はすでに旦那がいない状態。
お互いに愛する者と別れた過去をもっていることで、共感するものがあったようだ。
神山繁にとって、京都はゆかりの地であり、非常に思い出深い場所として鮮烈に残っていた筈。
その後は本格的に俳優として活動を再開させて、現在の我々が知る神山繁が出来上がったのだろう。
かつて神山繁は文野朋子とはおしどり夫婦として、非常に評判だった。
再婚相手の女性とも、晩年は同じ様にお互いを愛し合っていた関係だったであろう。
神山繁は非常に愛妻家であったことが伺える。
神山繁といかりや長介の関係について
神山繁はフジテレビの大ヒットドラマ【踊る大捜査線】で共演した、いかりや長介とは役者として戦友とも言える仲だった。
が、二人の関係は非常に古く、いかりや長介がドリフターズとしてコメディアンだった頃から親しい関係であったのだ。
お互いの自宅に招きあう程に、親しい間柄であり、供に芸能について語り合い、切磋琢磨していたという。
素敵な信頼関係を築き上げていたようで、それが後に【踊る大捜査線】で見せた絶妙な掛け合い演技を作り出していた様だ。
ベテラン俳優同士の類まれなる友情は、非常に男心をくすぐる気持ちの良い感情を抱かせてくれる。
おわりに
いかりや長介は、神山繁がかつて京都に移り住んだ時にも親交を絶やすことなく、連絡を取り続けていたそうだ。
神山繁も、いかりや長介ががんで闘病生活を病院で送っていた際、幾度となくお見舞いに訪れて励ましていたのだという。
そして神山繁も旅立たれてしまったわけだが、もしも、本当に天国があるのならば、きっと二人は今頃、熱くその気持ちを語り合っているのではないだろうか?
関連記事
↳ 神山繁は再婚していたのか? 死去の死因とアウトレイジの代役は誰になるのか?