自己犠牲の精神を尊ぶ世界にいたことがある筆者だが、それは現在は断じて違うと断言できる。
そして、自己犠牲の精神というのも、見方を変えれば欲望の一つであると認識できたのは、10年前ほどからだ。
その理由というのも、従事していた仕事においてである。
今回は思い出話を元に自己犠牲という概念が危険であり、決してそれはWin-winな状態にはならないことを解説していこう。
自己犠牲の精神を持って生きよ
筆者は幼少の頃から、信仰を重んずる家系に生まれた。
当時はある女性がファミリーの中で最も影響力が強く、彼女が右を向けといえば、皆が右を向くと言った形で時間を経過していた。
その彼女がよく幼い私や私の兄弟にいっていたことがある。
『人間を成長させるのは、自己批判と自己犠牲である。 決して傲慢になってはいけない。』
影響力がある彼女の教えを忠実に出来るだけ守ろうとするが、実際にはこの女性そのものが自己批判をすることもなく、自己犠牲をしてはいなかった。
むしろ、自分の都合を聞いてくれる人間だけを褒めて、自分の言うことをきかない人間を阻害し、食い物にしていた女性だった。
要するに後々に自分自身に都合の良い存在を作り出すための方便であったということである。
結果的にこの女性は筆者が成人して社会に出たころには、ファミリーの中で一悶着を起こして、周りからの信頼を失い誰からも相手にされることが無くなった。
そして、風の噂では生活保護を得て、過去を呪いながら生きているという。
現在は生きているか亡くなっているかも分からない。
自己犠牲の精神を与えられて何を感じる?
そういった女性の影響を強く受けていた筆者の母親は、とにかく人の為に尽くそうと努力していた。
結果的に人に騙されて多額の金銭を失っては、身内である私や私の兄弟の仕事の稼ぎをあてにするという状態に陥る。
周りからは信頼されて、クリーンな評価を受けていた私の母親であり、そんな母親を尊敬出来る部分はあったものだが、実際は毎月の私の仕事先の給料日は憂鬱な気分になったものだ。
結果的に周りからどう思われるかを気にしていた母親とは袂を分かつことになる。
もちろん、母親が私を身を挺して守ってくれたことはあるけど、それに対しての代償というのが成人してから支払う羽目になったのは皮肉な話である。
こうした経験から、私は自己犠牲の精神という美しいとされる概念などを信じようとする気持ちはなくなっていた。
自己犠牲の精神を持ち、行動している人間は、ありとあらゆるリソースを失うことになる。
その結果、その周りにいる人間が尻拭いをする羽目に陥るのだ。
本人はそんな自己犠牲の精神を他人に行って、うわべだけの高評価をもらって嬉しいし、満足感を得ているのだが、結果的には生きるのに必要なリソースを失っている。
結果的に自分が頼みやすい存在に負荷をかけることになるわけだ。
与えられたこちら側としても頼みを断りづらくなるし、結果的には沈む船に半ば強引に乗せられて、一緒に沈むということになるのだ。
自己犠牲の精神を仕事先にもちこんでいた者に・・・
以前の職場でとにかく仕事が出来る男がいた。
自分自身に羞恥心などはなく、人のことを気にしては、仕事を手伝って己の存在価値を高めていく。
非常に話しやすい人物ではあったが、自分自身がやったことを認められない時には、気弱でおとなしい人物に罵詈雑言を浴びせるという嫌な面がある男だった。
客観的に見ても、彼がやっていたことは自己犠牲の精神をもって会社の仕事には貢献していたと思える。
彼ほど仕事が出来る人間は当時は周りにいなかったのだが、私は彼に苦言を呈したものだ。
『アナタが自ら犠牲になるのは勝手だが、周りはそれを望んではいないんだ。 望まないことを何でやる必要がある?』
とね。
彼は私の苦言に一笑を付したわけだが、後に彼は職場では使いづらい腫物のような立場になり、失意の中、仕事を辞めていった。
結局、その後、彼がどうなったのかは定かではないが、おそらくはその能力を認められることは無く、日陰で生きて世間への鬱憤を巻き散らして寂しく生きていることは想像に難くない。
自己犠牲の精神を持つのではなく・・・
仕事や私生活、長い人生の中で大事なのは、決して私は自己犠牲の精神を持って実行することではないと思っている。
自己犠牲の精神というのも、結果的にはそれを遂行する者の自我欲がそうさせているのだ。
要するに自己犠牲というものを行っている本人が、自らの自我欲を満たしたいが為に行っている。
つまり、『自分の為』なのだ。
そこにはお互いが分かち合える『Win-Win』というものは決して生まれないのだ。
人間関係では間違いなく大なり小なり『Win-Win』というお互いが認め合い、分かち合う喜びが無ければ、その関係が良好な状態が継続することはない。
そして、それには自己犠牲の精神というのは、邪魔なモノになることが多いのだ。
自己犠牲ばかり強いられている存在が精神を病んで、何事にも自信が無くなり、卑屈になっていく精神構造になるのは間違いない。
よって、我々が今後、大事に持つべきなのは、自己犠牲の精神ではなく、共存や共栄を具現化していくという姿勢であると信じてやまない。
お互いがお互いのことを考えて、妥協できるところは妥協して、結果を出していくということを考えていく姿勢が共存と共栄を成り立たせるものだ。
願わくば、他者に自己犠牲の精神を持たせようとする大人の存在が減り、仕事や私生活などの全てにおいて、共存と共栄の精神を教えるという大人が増えてくれれば、未来の社会はより明るいものになると筆者は考えているのだが・・・。