沢村貞子という昭和を代表する大女優について取り上げてみよう。
若い頃には逮捕までされているという波乱万丈な道を歩みながら、数人の夫と結婚をした大胆な人物。
その最期も大往生を迎えて、今も尚、語り継がれる沢村貞子をまとめてみた。
沢村貞子について
【名前】 沢村貞子(さわむらさだこ)
【本名】 大橋貞子(おおはしていこ)
【生年月日】 1908年11月11日
【星座】 さそり座
【享年】 87歳
【出身地】 東京府東京都浅草区(現・東京都台東区浅草)
【学歴】 日本女子大学
【デビュー】 1929年
父は狂言作者であり、沢村貞子はその影響から幼少の頃から長唄と踊りを習う少女であった。
兄と弟がおり、後に彼らも映画俳優として昭和初期にスターダムにのし上がる。
貞子が小学校に入学したころ、弟は既に初舞台を踏んでおり、貞子もまた小学校2年生の頃から、弟の付き人として座へ通ったという。
学業と芸能を並行して子供の頃から活動していたが、1923年9月1日に関東大震災に見舞われて、学費を稼ぐ為に家庭教師の仕事をすることになった。
芸能への道を一旦、諦めて、将来、教師を志す為に日本女子大学に進学するが、教師たちの中で秘密裏に行われる人間関係や醜さを嫌い、再び芸能の道へ戻った。
1929年3月に女優・山本安英に女優志望の願望を出した貞子。
山本安英は当時、所属していた築地小劇場の分裂に際して、新たに創立した劇団に、貞子を紹介した。
貞子は大学生でありながら、劇団の研究生となり、その後、初舞台を踏んだ。
大学生と劇団員の二足の草鞋を履く若い頃の生活では、逮捕拘留されるなどのアクシデントにも見舞われるが、それは後述する。
1934年、貞子が25歳の時、兄の澤村國太郎のすすめもあり、映画女優に転身する決意を固めて、日活へ入社。
1936年には東宝映画に移籍をし、映画、舞台活動を続け、1947年にはフリーとして活動。
映画女優、舞台女優の傍ら、エッセイストとしても活動する様になり、1966年には初のエッセイ集である【貝のうた】、1977年には自叙伝【私の浅草】を出版。
【私の浅草】は第25回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
ちなみに、この二作はNHK連続テレビ小説で大ヒットドラマとして知られる【おていちゃん】の原作としても知られている。
1989年にNHKのドラマ出演を最期に女優を引退し、エッセイストとして、湘南の地で過ごす様になる。
1996年8月16日に横須賀市の自宅で波乱万丈な最期を遂げた。
沢村貞子の夫は誰だったのか?
沢村貞子はその人生の中で、三度の結婚歴がある。
一度目の結婚は23歳で、夫となった人物は俳優の中村栄二(今村重雄)である。
当時の沢村貞子が所属していた劇団は左翼演劇を中心にしており、それが元で治安維持法違反によって、夫もろとも逮捕されてしまった。
これが離婚の切欠になり、保釈時の取り決めで中村栄二と離婚を余儀なくされてしまったという。
二度目の結婚は貞子が28歳の頃で、二人目の夫は俳優の藤原釜足。
この結婚生活は10年間続いたそうであったが、その後、離婚。
離婚の原因は詳しくは触れられていないが、おそらくは後に三人目の夫となる人物との関係があるのかも知れない。
三度目の結婚は少々、複雑であり、刺激的な展開を見せる。
貞子は1946年に二人目の夫である藤原釜足と離婚後、すぐに京都の都新聞の記者であった大橋恭彦と交際するようになる。
実は大橋恭彦は妻子持ちであったために、貞子と大橋は駆け落ちをして同棲生活をするようになった。
駆け落ちして周囲のあらゆる圧力にも屈せずに、正式に再婚したのは1968年。
以降、大橋が貞子より先立つまで、供に寄り添い続けたという。
沢村貞子は若い頃には二度の逮捕も・・・
沢村貞子の若い頃の画像が少なからず現存しているが、さすが三度の結婚歴があるだけあって、どこか妖艶な雰囲気をもっている。
軽く前述したが、沢村貞子は若い頃に逮捕されている。
貞子が教師の夢を捨てて、女優になる際、橋渡しした山本安英が紹介した劇団・新築地劇団。
この劇団は活動していくにあたり、プロレタリア演劇運動(所謂、左翼的活動)に偏っていった。
その為に貞子も大学から退学を迫られたりなどの重圧を浴びることになったが、負けずに劇団での活動を行っている。
1932年に劇団の活動の中で移動演芸をしており、貞子もそれに参加したが、その時、築地警察署に治安維持法の容疑で逮捕される。
警察や関係者の要請で転向を迫れる貞子は、これを拒否し、2ヶ月拘留された後に、市ヶ谷刑務所に送られて10ヶ月半の独房生活を送ることになった。
保釈の条件として、転向と夫の中村栄二との離婚があり、これを呑んだ貞子。
1933年に無事に保釈され女優活動に復帰したが、左翼劇場創立5周年記念公演の主役に起用された貞子であるが、当局からマークされていた。
保釈中の身である貞子を起用すれば上演禁止するという、当局の圧力を受けた為に、貞子は主役の座を降りることに。
その後、貞子は保釈取り消しの手続きの隙をついて逃亡し、地下活動をしようとするが、一週間後に再逮捕されてしまった。
結局、再び築地警察署に拘留されて、市ヶ谷刑務所へ戻された。
その後、泣く泣く転向を声明し、懲役3年執行猶予5年の判決を受けて、釈放されたという。
現在の日本の社会からすると考えられないことであるが、当時は戦前真っ只中の今以上の社会主義だった為に、国民一人一人の思想にまで政府が介入してくるという土壌だったのだろう。
その結果、若い頃、だいぶ辛酸をのまされたことが、沢村貞子の人生を紐解くと浮き彫りになってくるといえる。
沢村貞子の最期は大往生と言える
沢村貞子は若い頃に逮捕されたり、三度の結婚をしたりなどの波乱万丈な女優道を貫いてきた。
そんな貞子も1989年に女優を引退し、横須賀市でエッセイを書く傍ら、隠居生活をすることになる。
毎日、湘南の美しい海を眺めて、自然葬という最期の別れ方を意識するようになった。
葬送の自由をすすめる会という市民団体があるが、その顧問を務めるようになった沢村貞子。
この頃から夫の大橋恭彦との散骨を望むようになっていたという。
1996年8月16日、87歳で横須賀市の自宅で安らかに永眠した。
死因は心不全であり、生前の遺言から葬儀は身内だけで行い、火葬された後は先に亡くなっていた夫の大橋恭彦の遺骨とともに相模湾に散骨されて、旅立ったという。
おわりに
沢村貞子という現在でも語り継がれる大女優の若い頃の逮捕や三人の夫に焦点を絞ってみた。
最期の自然葬という考え方は、筆者も非常に共感できる部分がある。
全て自然に還っていく、その最期の時も・・・そんな考え方は非常に美しいし、理解は得難いのかも知れないが、一番、まともな考え方に思える。
冠婚葬祭は結局のところ『金』というものになっていくし、それは若干、人の最期を締めくくるにあたっては非常に醜い様相を呈することも多々ある。
そうではなく、最期の時は若い頃には駆け落ちまでして、供に寄り添った夫と供に人生を終わらせたいという気持ちを貫徹した沢村貞子の気持ちは非常にカッコいいと感じる。
願わくば常識にとらわれることなく、自分自身の為に最期まで魂をもって生きていきたい。
沢村貞子の歴史を紐解いて、強く筆者は感じた。