野澤正平と聞いてピーンと来た人は、山一証券を知っている方だ。
涙の謝罪会見の中で、固く無表情な容姿からは想像もつかないほどの人情味を見せた方だ。
そんな野澤正平の今、現在も凄く、その人柄についていく者たちも後を絶たないという。
個人的にこんないい人が会社のトップならどれだけいいか・・・と感じる野澤正平という男をまとめてみた。
野澤正平について
【名前】 野澤正平(のざわしょうへい)
【生年月日】 1938年4月3日
【星座】 牡羊座
【年齢】 81歳
【出身地】 長野県
【血液型】 非公開
【学歴】 法政大学経済学部 卒業
【所属】 元山一証券・社長
野澤正平の現在(今)が凄すぎる!
野澤正平は現在81歳でありながら、非常に多彩な活動をしている。
飲食店を主体する企業のサポートと運営を手伝う会社【G-FACTORY】の社外取締役。
人材派遣業やコンサルタント業務を中心に展開する【マーキュリースタッフィング】の社外取締役。
国の四つの行政機関から認可をもらって運営している組合【ワイズ総研】の顧問。
その他、企業向けセミナー講師として各地を飛び回っている。
野澤正平は現在の近況などを知りたがる、大手マスコミからの取材などを一切、拒否し続けている。
その理由は本人の口からは語られないが、やはり野澤正平を語る上では避けて通れない山一證券の時にまでさかのぼる。
野澤正平の現在(今)を語る上では山一證券は避けて通れない
少し生い立ちを説明しよう。
野澤正平は長野県長野市川中島の農家の息子であり、8人兄弟の4番目。
高校卒業後、経済的には裕福ではなかったため、3年間、家の仕事を手伝いながら法政大学経済学部へ進む。
非常に環境的に辛い状態ではあったものの、勉学は疎かにせずに卒業。
大学卒業後の1964年4月に、当時の日本の四大証券会社である【山一證券】に入社。
自分の努力を認めてくれる業種というのは証券しかないと感じていた野澤正平が何故、山一證券を選んだのかと言えば、他の証券会社よりも外資の影響と結びつきが強かったからであると語っている。
当時、一流企業であった山一證券であっても、証券マンはハードな叩き上げの世界であった。
苦節26年間の努力の甲斐あって、1990年に金融法人本部副本部長に出世し、1994年4月に常務取締役名古屋駐在兼名古屋支店長を兼任。
1996年4月に専務取締役大阪支店長を歴任し、翌年の1997年8月に山一證券・代表取締役社長に就任した。
1990年から一気にトップに上り詰めた異例のスピード出世ではあるが、実はこれには裏がある。
実は山一證券は簿外債務といって、帳簿に記載されていない2600億円もの借金があったのだ。
下落する株価の損失を何とかしようと、秘密裏に野澤正平が社長に就任する前に『飛ばし』が行われていた。
飛ばしとは?
損失の出ている有価証券を、買い戻し条件付きで時価とかけ離れた値段で第三者に転売すること。
保有している株式や債券が値下がりして、含み損がバランスシートに載ることを嫌う企業が、決算期の異なる企業を相手に、後日の引き取りを条件に時価より高い値段で売却することを指し、粉飾決算の一種とも言えます。現在は証券取引法で禁じられている。引用:カブドットコム証券より
これを作り出したのは山一證券・会長である行平次雄であり、それを前社長の三木敦夫に丸投げするということをする。
結局、三木敦夫は簿外債務をどうすることも出来ずに、総会屋との繫がりによって既に追われた存在であった。
野澤正平が社長に就任したのはそんな時であり、社長に就任してすぐに2600憶円の簿外債務を知り、これを何とかしようと動く。
野澤正平と役員たちは米国三大投資銀行の一つであるメリルリンチと提携を試みた。
加えて会社の規模を小さくして、最悪、従業員のリストラをしてでも、山一證券の存続を望んだが、この時には野澤正平や他の経営陣にはどうすることも出来ないほどに修復は不可能な状態になっていた。
山一證券の株価は下落の一途をたどり、主要銀行からの支援も受けることが出来なくなり、ついには大蔵省にも見捨てられる状態になり、結果的に自主廃業の選択しか出来ない状態に陥る。
野澤正平が社長に就任して、たった三か月目のことであったのだ。
要するに野澤正平は沈みゆくしかない船の舵をとらされたということに他ならない。
野澤正平の涙に日本中が注目し、そして・・・
これは非常に有名な動画であり、今見ても心を打つものがある。
『社員は悪くない! 私たちが悪い!』と、日本中の人間が見ているテレビの前で堂々と認め、社員たちのことを想う野澤正平。
野澤正平はこの後、社員たちの再就職に出来るだけ尽力し、きっちりと山一證券の残務処理も片づけた。
実際に外から見ている人間の多くは皆、分かっていたこと。
野澤正平も尻ぬぐいさせられた被害者であったことを。
謝罪会見後、野澤正平は表舞台から消え去るが、その熱い経営理念と人柄、信用などから様々な会社からのオファーが来る。
2000年にはシリコンコンテンツの会長に就任し、IP電話【ビットアリーナ】の普及に当たり、インターネット関連会社のデジタルガレージの顧問にも就く。
IT業界だけではなく、2003年には大木建設に特別顧問として招かれ、2004年にセンチュリー証券の社長に就任。
証券の世界に戻ることには難色を示していたが、野澤正平のそれまでの人柄によって頼み込まれた故のことであるという。
その後は法政大学経済学部同窓会会長を2010年6月まで勤め、現在に至っている。
野澤正平の人柄は『いい人』としか言えない
本来、人の上に立つ人間というのは、冷酷で計算高くなければ務まらない。
しかし、野澤正平は違っており、現在の日本人が忘れてしまった武士道にのっとった精神を持ちながらも、優しさに富んだ人柄である。
その為に野澤正平の下だからということで、どこまでもついていくという社員がいるほどである。
また、野澤正平自身の名言として、このようなものがある。
それはテレビ東京のテレビ取材の際に仰っていたこと。
山一證券廃業の涙の記者会見から20年経った時に、こう聞かれた野澤正平。
『どんな20年でした?』
野澤正平『あっという間の20年だった。振り返ってみると、あの涙の会見を悪くいう人も良くいう人もいるが私はあれは自分でも恥ずかしくない。あの涙には2つあって、7割が社員の事で頭がいっぱい、3割は社長になって頑張ったけれど駄目だったと悔し涙。』
今、現在でも信じていることとして
野澤正平『会社って誰のものだといまだに言い続けている。「株主のものだ」と必ず言うから「ばかたれ」と、会社は皆さんものだ。会社が生きているときは社員が財産。』
素晴らしい経営哲学を持ち、しっかりとそれを忘れずにやっていらっしゃる方なのだ。
何をどういっても人柄はいい人そのものであり、崇高な人格者だと思うのだがどうだろうか?
おわりに
100年の歴史を誇った山一證券の最後の社長として最後まで責任をとった生ける伝説の実業家・野澤正平についてまとめてみた。
今、現在もバリバリと人の上に立ち、多くの企業のサポートを担い、『人の山一』という異名を持つお方である。
その人柄に裏打ちされた考え方は、多くの人たちの協力を呼び込む力がある。
本来ならば社会から引退していてもおかしくないはずの年齢なのに、未だに多くの企業から力を求められている野澤正平。
冒頭で言ったように、山一證券の時の気持ちがあるからこそ、今でも表舞台に立とうとはしない。
しかし、皆、知っているのは紛れもなく日本人としての魂を今でも持っている数少ない実業家であることを。
最高に『いい人』であると信じれる唯一無二の存在ではなかろうか。