小林カウという元死刑囚は【昭和の毒婦】として現代にも名を残す女性。
【ホテル日本閣事件】の犯人として戦後初の死刑で最期を迎えた小林カウには娘をはじめとする家族がいた。
小林カウの歴史をWikiをつづる様に紐解いてみよう。
小林カウのWiki
小林カウ (こばやしかう、1908年 – 1970年6月11日 )は、元ホテル経営者であり戦後初の死刑囚。 埼玉県大里郡玉井村出身。(現・熊谷市)
農家の生まれであり、7人兄弟の次女として貧困の中で育った。
小林カウについて
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- 1918年 小学校を4年で終了。
- 1923年頃、上京し東京・本郷の旅館に女中奉公に出る。
- 1930年 新潟県出身の小林秀之助という人物と見合い結婚。
- 1931年 夫婦で熊谷市内で雑貨商を営む。長男が誕生するが、すぐに死去。
- 1932年 長女の娘が誕生するが、熊谷での雑貨商は廃業し、東京を転々とする。
- 1945年頃 小林カウと夫は熊谷市内に家を建てて、禁制品を扱う小売屋をし、カウは漬物などの製造卸売を始めた。
- 1952年10月 夫の秀之助が変死。(後に熊谷事件と名付けれた)カウは姉の一家と漬物の製造卸売りを共同で行う。
- 1954年 小林カウは漬物の行商で各地を回り、栃木県・塩原の温泉郷に辿り着いた。
- 1956年4月頃 小林カウは現地に【那珂屋物産店】を立ち上げる。
- 1957年 隣の店を買い取り食堂をひらき、姉夫婦を主人に据えた。
- 1958年9月頃 小林カウは増築途中の【ホテル日本閣】が売りに出ている噂を聞きつけて交渉に望むも破綻。 主人であった生方鎌助と関係をもつ。
- 1960年2月8日 生方鎌助の嫁であるウメが失踪。 【ホテル日本閣】は増築を再開。 生方鎌助と事実婚の関係となる。
- 1960年12月31日 生方鎌助が失踪。
- 1961年2月20日 小林カウとホテル日本閣で雑役をしていた大貫光吉の2人が逮捕される。
- 逮捕後に小林カウは前の夫・小林秀之助、生方ウメ、生方鎌助の殺害を自供し、元愛人であった中村又一郎も起訴された。
- 1966年 小林カウと大貫光吉に死刑判決が下される。 中村又一郎は証拠不十分で無罪。
- 1970年6月11日 小林カウの死刑執行が行われた。
小林カウを見限った娘、その理由とは?
小林カウは22歳のころに、夫の小林秀之助との間に2人の子供をもうけたが、息子は生まれてすぐに死去。
一人っ子の娘と病気がちの夫・秀之助供に暮らしていたが、熊谷市で営んでいた雑貨商は経営難に陥り店閉まい。
小林カウと夫の秀之助、娘は東京を転々とするも、夫の秀之助は徴兵により軍に駆り出される。
東京で商才に完全に目覚めた小林カウは男性を手玉にとり、お金だけの交際を続けて富を蓄えていったと思われる。
娘は20歳になると、小林カウと音信不通となり、どこぞの地へと消えていったことから見ると、男と商売だけに意識を向いていたカウを母親として見れなかったのだろう。
小林カウの血を引く娘は現在(2017年)、生きていれば85歳となっている筈だが、その消息の域は出ない。
小林カウが死刑囚となり最期を迎えるまでに何があった?
小林カウは少女時代にはすぐに女中奉公にでて東京の土地で垢ぬけたことで、地元に戻ってからは非常に目立つ女性になっていた。
魅力溢れる美女になっていた小林カウに縁談が持ち上がり、結婚するも夫の小林秀之助は病弱であり、夫婦生活はとても満足がいくものではなかった。
子供は2人もうけることが出来たとはいえ、その欲は別に向けられていく。
魅力的なカウの誘惑に落とされる男は多く居た様であり、その度にカウは少しづつ性欲は金欲を満たしていった。
病弱でカウを肉体的にも経済的にも満足させられなかった夫の小林秀之助は、カウに何も言えない立場であったそうだ。
何故なら、この頃にはカウが精力的に商売に精をだして、家計を支えていたからだ。
小林カウには多くの愛人がいたとされているが、中でもカウの夫の小林秀之助を共謀して毒殺した中村又一郎は何と警察官であった。
本来は娘の婿にとして、中村又一郎をもてなして、懇意な関係を続けていたが、娘ではなくカウ自身が彼と関係をもってしまう。
病弱で頼りにならない夫・小林秀之助が邪魔になった二人は、青酸カリで毒殺したのだ。
カウを怪しく思う人間も多く居たが、おそらくは中村がその立場を利用して、捜査をうまく攪乱していたことは容易に推測できる。
その後、二人の関係は破綻したが、小林カウは商売の楽しさに目覚めており、行商の際に訪れた塩原の温泉郷で新たな夢をみつける。
温泉宿を持ちたいという夢を叶えるために、塩原で店を複数開いて、身内をあてがい富を構築していった。
そんな中、有名なホテル日本閣(実際の内情は火の車であった)が安値で手に入るという噂を聞きつけた。
当時、有名であったホテル日本閣が何故、資金難になっていたのかは、ここでは割愛する。
ホテル日本閣の主人・生方鎌助との交渉に入るものの、実際には経営難であったにも関わらずに生方鎌助は人に売る気は毛頭なく、カウの交渉は実を結ばなかった。
後年、生方鎌助に温泉宿を廃業してやり直そうという嫁のウメとの間に、亀裂が生じたようで、生方鎌助は小林カウを思い出して、融資話をもちかけた。
生方鎌助は嫁のウメへの手切れ金を用意してくれれば、迎えてやるというものだった。
生来の男好きで商売への強い野心がある小林カウはこれを受けたが、ウメは応じようとはしなかった。
ウメがいるうちは、ホテル日本閣を得ることはできないと感じた小林カウ。
そこで、案じた姦計がホテル日本閣で雑役をしていた大貫光吉を身体を使って籠絡するというもの。
結果、女性経験がとぼしい大貫はカウの術中にはまり、ウメを亡き者にしてしまった
ウメの亡骸は小林カウ、生方鎌助、大貫光吉の3人の手によって隠された。
しかし、塩原の町では、ウメが殺されたという噂が何処からともなく流れて、これが3人の関係に混乱を生じさせる。
更には生方鎌助はカウとの約束を破って、お金をとっておきながら、ホテル日本閣を競売にかけていたからであり、騙されたことを察知。
大貫光吉に今度は生方鎌助を始末する協力を仰いだ。
見返りとしてお金とホテル日本閣の亭主ということを条件に。
結局、生方鎌助は2人によって命をとられるが、既に塩原の町ではホテル日本閣の経営者夫妻が失踪し、カウたちに始末されたという噂が大きくなり、地元の新聞も取り上げる様になっていた。
逮捕されるのは、もはや免れない状況であったのは明白である。
結局、お金と地位の為に巧みな策略で人を殺めたとして小林カウと大貫光吉は死刑囚となった。
死刑囚となってからも、小林カウは持ち前の明るさと男好きは無くなることはなかったそうであった。
取り調べの捜査官にも『死刑だけは堪忍してね。』と愛嬌を振りまいていたという。
おわりに
小林カウは戦後、初の女性で死刑執行されたということで犯罪史に名を残している。
昭和の毒婦という異名の元に現在でも語り継がれているわけだが、その罪は断じて許し難いものがあるのは否めない。
だが、この男勝りな欲望と、卓越した商売に賭ける意気込みは素直に賞賛に値すると言えよう。
安心安定に縋りつき、人や国、企業に頼ってばかりの人間が多い日本の世の中であり、それがまともと言われていた昭和の時代。
おそらく小林カウが平成が終わろうとしている現在に生きていたら、凄まじい経営者として別の意味で名を残すほどの起業家になっていたのではないか?と感じるほどである。
小林カウをモデルにした映画【天国の駅 -HEAVEN STATION-】は名作といえるので、機会があれば是非、視聴するのがいいと感じる。