山本KID徳郁の訃報は、格闘技界全般は元より一般の我々にも、大きなショックを与えている。
そんな山本KID徳郁に関しては、昔からその素行と性格が悪いという悪評が目立っていた。
身体には無数のタトゥーを入れて、いかつい容貌。
そして、現役の時は、凄まじい過激なファイトと傍若無人な物言いを放ち、正にアウトロー型ファイターの典型と言うべきスタイルで、観客を魅了していた。
しかし、山本KID徳郁には、実は昔から意外な一面があったのを、ご存知だろうか?
ここでは、山本KID徳郁を惜しむ意味を込めて、その両面について触れてみよう。
山本”KID”徳郁について
ほんとうにショックです
『山本KID徳郁』総合格闘技の中では
身長163㎝と不利な体格なのに
勇猛果敢なファイトスタイルは
とても神々しく憧れでした
今までありがとうございました
ご冥福をお祈りします pic.twitter.com/ILbm8bPwGs— usamaru (@usamaru6) 2018年9月18日
【名前】 山本"KID"徳郁(やまもと”キッド”のりふみ) 【本名】 岡部徳郁(おかべのりふみ) 【異名】 神の子 【生年月日】 1977年3月15日 【星座】 うお座 【享年】 41歳 【出身地】 神奈川県川崎市 【血液型】 B型 【最終学歴】 山梨学院大学・中退 【所属】 KRAZY BEE 【デビュー】 2001年
山本”KID”徳郁は、元オリンピック日本代表の山本郁榮の長男である。
幼少の頃から郁榮の指導を受けて、レスリング競技者として活動をする。
高校時代にはアメリカにレスリング修行に赴き、アリゾナ州のレスリング大会では三度、王者になった。
日本に帰国後は、山梨学院大学に進学した後、全日本学生レスリング選手権大会・フリースタイル58kgで優勝を果たす。
シドニー五輪を目指すも、1999年の全日本レスリング選手権大会で優勝を逃したKIDはオリンピックへの道が閉ざされたのを切欠に総合格闘技の道に転向する。
当時、姉の山本美憂の夫は、総合格闘家のエンセン井上であり、彼を師と仰いだ。
2000年にアマチュア修斗で優勝し、2001年にプロ修斗デビュー。
王者の素質があり下馬評は高かったのだが、怪我に泣かされて、修斗のリングでは世界ライト級2位止まり。
2004年2月24日にK-1からの招聘を受けて、【K-1 World Max 2004 ~日本代表決定トーナメント~】に参戦し、優勝候補であった村浜武洋を圧倒的なスピードとパワーでKOで破る。
この際、父親の郁榮を挙げながら、自身を『神の子』としたことで、ニックネームが定着することになる。
この試合を機にK-1での活動が増え、派手なKO勝利と秒殺劇で、一躍、人気を高めた。
総合ルールの試合も交えながらではあるが、僅か5戦目で、K-1ミドル級の日本最強の魔裟斗と対戦し、ダウンを取るも判定負けを喫した。
当時、K-1を運営していたFEGが、新たに総合格闘技興行HERO’Sを立ち上げ、それに参戦表明。
HERO’Sでは破竹の快進撃を続け、HERO’S初代ミドル級王者となる。
HERO’S参戦時には試合開始僅か4秒でKO勝利を果たしたこともあり、これは総合格闘技において世界第三位の最速KO試合。
(2006年5月3日 宮田和幸戦)
その後、2008年・北京オリンピックを目指す為に、総合格闘技から離脱するが、2007年の全日本レスリング選手権で井上謙二に16秒でフォール負けを喫する。
この試合で右肘を脱臼したKIDは、北京オリンピックを断念。
2007年9月に再び総合格闘技に復帰するも、以前のアグレッシブさは失せてしまい、2011年UFCと契約するまでの結果は5戦3勝2敗という精彩を欠いたものとなってしまった。
UFCと契約するも怪我によって負傷が相次ぎ、負傷欠場が相次ぎ、UFC契約期間4年の中で4戦3敗1無効試合という結果に終わる。
これ以降は後進の指導に努めるようになり、現在、総合格闘技で活躍している堀口恭司、矢地祐介などの強豪選手を育て上げた。
私生活では2004年8月にモデルのMALIAと結婚し、二人の子供をもうけるも、2009年8月に離婚。
2014年11月には婚約者である一般女性との間に、女児が誕生したことを発表し、後に結婚している。
この時、結婚相手の姓をとり、山本性から岡部性となった。
2018年8月26日、インスタグラム上にて、がんにかかっていることを公表。
2018年9月18日に死去したことが、所属ジムから公表された。
山本KID徳郁って性格が悪いのか?
がんで亡くなった山本KID徳郁さん、伝説となった飛び膝蹴り4秒KOの瞬間です。
【写真特集】山本KID徳郁さんの軌跡https://t.co/iy7n1W3q6K pic.twitter.com/bFhR5Sz9M6— 毎日新聞 (@mainichi) 2018年9月18日
山本KID徳郁は現役選手時代から、非常に印象の悪い選手であった。
2002年9月16日に行われた修斗公式戦で、勝田哲夫と対戦した際、勝田をパンチでKOしたにも関わらずに、倒れて意識を失っている勝田に対して、舌を出して笑いながら殴り続けるという蛮行をし、4か月のライセンス停止処分を受ける。
K-1デビュー戦の村浜武洋との試合では、不敵な笑みを浮かべて、レフェリーのブレイクを無視して村浜に攻撃を与え続ける暴挙も見られた。
2005年12月31日のトーナメント決勝戦では、須藤元気をKOするも、最後に握手を求めに来た須藤に対して『おお、よくやった、よくやった。』といいながら、頭を撫でる侮蔑のこもった態度を見せた。
2008年にKIDの弟子の山本篤が、ルーキーの所英男と対戦し勝利した際、所英男にリング上で、ここでも侮蔑を込めたように頭を撫で、耳元で酷い言動を吐いたという。
(所英男はこの時にKIDに言われたことを『誰にも言えない』とコメントをしている。)
また、解説者として放送席に座った際のコメントなどには、とても教養のある人間とは思えない発言や態度が目立っていた。
2008年当時は山本KID徳郁の評判は二分されており、ネット上にはKIDの性格について問題視する声も多かった。
ところが・・・
山本KID徳郁は実はいい人
山本KID見た目チンピラで怖いけど
○線路に落ちた男性救助、名乗らず帰る
○闘犬の飼い主の男に「犬はそんなの望んでない!飼い主のエゴで闘わせてるだけ」と咎める
○殺処分されそうな犬を保護する
○地下格闘技に出てる人を「ただの不良」と非難本当に心が優しくて人は見た目じゃないを体現した人 pic.twitter.com/s2ki1kEE1t
— H6K (@H6K_7) 2018年9月18日
山本KID徳郁は2008年以降から、転がる様に転落人生を重ねていく。
格闘家以外にも、飲食店やファッションブランドを立ち上げるも、全てうまく行かずに最終的には手持ちのお金が2,000円しかないという状態にまで落ちていった。
こういった転落人生から数年経った2012年頃、女性週刊誌がある報道をする。
五反田駅の線路に老人がホームから転落をし、線路上で動けなくなっていた。
それを救助したのが、山本KID徳郁であった。
助けに入るのを躊躇っていたホームの一般利用客も、KIDのその姿勢に力を貸して老人の救助に成功したということであった。
また、2015年・BSスカパーで放送されている【BAZOOKA】に登場した山本KID徳郁。
番組の企画で闘犬愛好家の木村氏が土佐犬を連れて登場した際、木村氏が土佐犬のトレーニングなどを語っている時にKIDが言い放った。
『飼い主も会場でやればいいのにね。 飼い主対飼い主。』
『自分がヘタレだから犬に戦わせて満足しているんじゃないのか?』
番組上で木村氏との言い合いになり、木村氏が
『さっきの動画見てもらっても分かる通り、(闘犬が)しっぽ振りながら戦ってるんですよ。喜んでる。』
と、言うとKIDは
『尻尾振ってるからって喜んでいるわけじゃないよ! 本当に無知だな!』
と激しく反論し、
『だから、飼い主も痛みを知った方がいいんじゃないですか?そしてらちょっとは優しくなれるんじゃないですか?』
と、言い放った。
実は当時、山本KID徳郁も、愛犬家でありブリーダーも手掛けていたことで、犬を戦わせて喜んでいる人間に対して抵抗感があったという。
この後、KIDは闘犬が戦えなくなったら殺処分されることを話し、友人の話を持ち出した。
KIDの友人は戦えなくなって殺処分をされそうな闘犬を引き取って育てているそうで、育て方では他の犬と仲良く共生出来ることを話したという。
山本KID徳郁は、犬だけではなく動物全般が大好きであり、弱い人間や動物を大事にするという人情味が溢れる一面をもっていたのだった。
おわりに
山本KID徳郁は、さながら天使と悪魔・・・両方の顔を持っていた複雑な性格の持ち主であったと感じている。
晩年は転落したこともあったことも手伝って、非常に穏やかな性格になり、指導者として非凡な才能を発揮していたのは記憶に新しい。
個人的にはKIDの試合を見る度に、すごく元気が湧いたこともあり、勇気をもらったことは一度や二度ではない。
41歳という早すぎる生涯を終えてしまった山本KID徳郁に対して、心からご冥福をお祈り申し上げます。
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