稲川淳二の数ある怖い話の中で、ズバ抜けて大人気の話が【生き人形】だ。
日本有数の世界的な人形使い・前野 博の怪死も相まって、数十年にも及ぶ長きに渡った怪談の金字塔といえる話。
その後の写真が公開されてからというもの、数多くの憶測や推理が生まれたわけだが・・・。
稲川淳二の生き人形の写真の数々!
生き人形の写真・その一 ←クリックすると閲覧できます。
稲川淳二の最恐傑作と言われて久しい【生き人形】であるが、始まりは1975年という古い頃だ。
この生き人形を制作したのは小宮述志であり、その後、後述する人形師・前野博の寵愛を受けることになる。
生き人形の写真・その二 ←クリックすると閲覧できます。
この生き人形の写真は、既に奇怪な出来事を引き起こした後であり、稲川や前野曰く、既に顔が変わっている状態の写真。
稲川淳二が語る本編の内容によると、それほどの悲劇を巻き起こした原因とされる生き人形を手離すことが出来なかった前野博。
生き人形の写真・その三 ←クリックすると閲覧できます。
現在でも写真を見ると、何か只事ではない魔力を秘めているかのような生き人形の形相に、呪いなどは存在しえないと思っている筆者も身体に異変が出てくる気分にさせられる。
生命体ではないはずの人形に、本編では様々な怨念の塊と化している存在になっていたというが・・・。
稲川淳二の生き人形のその後の写真のおかしな点
生き人形の写真・その四 ←クリックすると閲覧できます。
稲川淳二がその後の写真として、生き人形の本編で鍵となる少女・あゆみに手渡された写真。
写真に写っているのは、稲川本人と、前野博の元付き人であり、その後、稲川のマネージャーとなった木村安城氏と、生き人形。
稲川淳二はありっこない写真であるとして、存在すら忘却していた一枚であるが、その点はさすがに脚色しているだろう。
写真では稲川も木村氏のカメラに向けて微笑んでいるし、本編で語られるほどの恐ろしい生き人形を全く怖がっていない様相がそこにはある。
生き人形に前野は逝かされたのか?
前野 博は1933年に東京都で生まれ、16歳の時には既に人形劇団入りしていた。
1963年から人形師として独立して、様々な人形を使った公演やテレビ、映画などを手掛けて日本有数の人形師となった。
生き人形が放つ奇妙な出来事に翻弄されながらも、他の人形捨ててでも、悲劇を起こしていた生き人形を愛してやまなかった。
加えて同じ時期には兄弟と財産争いをしていたことからも、その私生活は非常に混沌としていたことが本編から分かる。
1988年6月1日に東京江東区の自宅アパートで前野博は火事によって他界した。
稲川淳二は本編で、前野博が亡くなってから電話で話したということを語っていた。
だが、生き人形を独自に調べて、現在も出来る限り取材を行っている某氏によると、前野博が自宅が出火した時刻と、稲川が前野と話した時刻はズレがあるとしている。
筆者も前野博が可愛がっていた生き人形に命をとられたという話は、到底、信じられるものではないと感じている。
おわりに
生き人形の現存している画像などを中心に、その後の奇妙な写真についての考察などをしてみた。
前野 博が亡くなったことは、前述した通り、呪いなどではなく事故によるものであったと感じるが、しかし・・・。
生き人形や前野、稲川淳二の関係者が5人、数年の間に亡くなっていることは、どうあっても説明は出来ないし、偶然にしては続きすぎることも奇妙ではある。
筆者が思うに5人のうちの数人は、生き人形や呪いなどとは関係がない別の推測も考えているが、それは話が違うものとなるので触れないでおこう。
言えることは呪いという抽象的で非科学的なもののせいではなく、確実にそこには何らかしらの因果があったということだ。