平尾昌晃の死去した報道が日本中に飛び交っている。
昭和を代表する名作曲家であり、様々なテレビ番組でも登場していた笑顔の素敵な人物であった。
平尾昌晃の死因や何かと不評の息子の平尾勇気にも触れていこう。
平尾昌晃について
作曲家・平尾昌晃氏が肺炎で死去。#訃報 #平尾昌晃 pic.twitter.com/UIkDrhT6TG
— Takashi Nakajima@G党⊿ (@taka_nakajima) 2017年7月22日
【名前】 平尾昌晃(ひらおまさあき)
【生年月日】 1937年12月24日
【星座】 やぎ座
【享年】 79歳
【出身地】 東京都新宿区
【血液型】 不明
【学歴】 慶應義塾高等学校・中退
【所属】 日本音楽著作権協会(JASRAC)
【デビュー】 1957年
平尾昌晃は小学3年生のころに、ジャズに目覚めて以来、歌手を志した。
ジャズ教室に通い、まだ日の目を見ていない若かりし頃の朝丘雪路やペギー葉山などと知り合う。
1957年にジャズ喫茶店で出演していた際に、渡辺プロの渡辺美佐と映画監督の井上梅次に見出されて、映画に出演した。
1958年には歌手としてソロデビューを果たし、現在も活躍しているミッキーカーチスや山下敬二郎と供にトリオで大人気を博した。
1965年には拳銃の不法所持で逮捕されており、このことから暴力団との関係が発覚するという事態に陥った。
その後は作曲家としての活動が多くなり、数多くの歌手に楽曲を提供するようになった。
それぞれ、大ヒットを飛ばして、作曲家としての立場を確立させていった。
平尾昌晃が死去!死因は肺炎だった
平尾昌晃は1968年に肺結核を患って、長期間入院していたこともあり、この時の治療の歳、肋骨を6本も取り除かれたという凄まじい闘病をしていた。
そして、時を超えて、50年後にやはり肺に病気で倒れることとなる。
平尾昌晃は2017年7月21日の夜に都内の病院で死去した。
2015年頃から肺がんを患っており、闘病中の身であったが、死の間際まで作曲活動を行っていたという。
しかし、死因は闘病中であった肺がんではなく、肺炎によるものであったと発表されている。
平尾昌晃の息子はお騒がせな平尾勇気!
2月20日放送の #ビビット
『密着ビビット』には、歌手の平尾勇気さんが登場!
大物作曲家・平尾昌晃さんの息子で、最近ではチャラすぎる二世タレントとして話題。
今回は勇気さん主催の”二世会”や、自身の歌手活動に密着!さらに、偉大すぎる父への想いを聞きました。 #tbs #平尾勇気 pic.twitter.com/MByr2wyy8I— TBS ビビット (@vivit_tbs) 2017年2月19日
平尾昌晃の息子はチャラさに定評がある、あの金髪歌手・平尾勇気である。
平尾昌晃は2度結婚をしており、後妻との間に出来た子供が平尾勇気である。
2世タレントとして、デビューしたものの、その破天荒な芸風は、およそ歌手らしくないということで、別の意味で注目が集まっている。
だが、デビュー曲の【はだかの楽園】は息子の勇気の作詞作曲であり、有線のチャートでは3位にもなったことがあるのだ。
やはり、親譲りの素質があったということだろう。
非常に素敵で甘い曲であり、どこかノスタルジックさも漂う良曲であるといえよう。
父の平尾昌晃は放任主義であったようで、その親子関係が険悪とも噂されていたようだが、実際には非常に仲が良かったという話もある。
おわりに
平尾昌晃は昭和の日本音楽界を作っていった一人といっても過言ではない。
死去に際しては多くの関係者や、才能を受け継いだ息子にも大きな悲しみを呼び起こすことになるのは必至だ。
死因は兼ねてより爆弾を抱えていた肺に関係する病気ということだったが、闘病中でも仕事を精力的にこなしていたというのは、恐るべき精神力だ。
平尾昌晃のご冥福を心からお祈り申し上げます。