永源遥という元プロレスラーが死去した報道が流れた。
永源遥は往年のバラエティに富んだプロレスで、老若男女問わずにファンがいたわけだが、現役を引退後はプロレス団体・ノアの相談役として知られていた。
そして、現時点で永源遥相談役の死因には謎があるのだ。
今回はそれを考察していこう。
永源遥とは?
永源遥は1946年1月11日に石川県鹿島郡鹿西町で生まれた。
遥(はるか)というと女性の名前に思えるが、これはれっきとした本名である。
プロレスラーになるまえは力士であり、大相撲立浪部屋に入門し、15歳で相撲デビューをしている。
1965年に力士から退いて、翌年の1966年5月に東京プロレスに入り、プロレスラーとしてデビュー。
当時は永源勝というリングネームだったが、東京プロレスが倒産した後は日本プロレスや新日本プロレス、全日本プロレスなどを渡り歩いた。
全日本プロレスに移籍後は、当時の社長であるジャイアント馬場は永源遥のプロモーターとしての能力や人脈の広さを高く評価しており、プロレスラーとして活躍させる傍ら、営業にも参加させていた。
ジャイアント馬場が死去し、全日本プロレスから大量に選手が離脱する事態に陥ったのと同時期に、プロレス団体ノアが旗揚げした。
これにのり、ノアに移籍した永源遥だが、永源遥がノアに移籍したことが、プロレス団体・ノアが成功した一番の要因であると関係者は口を揃えて言ったという。
現役プロレスラーとしてリングに上がるも、ノアの常務取締役を兼任していたが、2009年に常務から相談役に退いた。
後に暴力団との交際を取りだただれて、一般社員へ降格させられたという。
永源遥の死去報道
永源遥が死去した最初の一報は、盟友でもあるグレート小鹿のブログからだったようだ。
それを追う形でスポーツ新聞各紙が報道。
元プロレスラーの永源遙さん(本名同じ)が死去したことが28日、分かった。70歳。所属団体だったノアの広報担当によると「亡くなられたのは事実。詳細は確認できていない」とのことだが、関係者の話では、同日の午後8時ごろに自宅の風呂場で倒れたという。
引用:デイリースポーツより
詳細が確認できないということで、その死因までは報道されておらずに謎のままだ。
永源遥の死去報道に際して、ファンの反応は悲しみが感じられる。
えいげんはるかが死んだ
俺の好きだったレスラーが減ってくよ😢
かわりに明日からつば吐くよ!— わかめ (@wakamenboo) 2016年11月28日
永源遥が亡くなったとのこと。追悼だ。今日は飲もう(自分の下顎に溜まったツバを)
— 掟ポルシェ (@okiteporsche) 2016年11月28日
え、えっ、えぇぇぇーーーー!?知らなかった……永源さんの試合はいつも楽しみで、ラッシャー木村さんとのマイクのやり取りも大好きでした。心よりご冥福をお祈りします。#永源遙https://t.co/VeVnLmO2fD
— ダゼー・ファンク Jr. (@dazeyfunkJr) 2016年11月28日
風呂場で倒れて、そのまま死去というのは、何とも非常にミステリアスだが、死因に関してはおよその見当がつく。
次は死因の考察をしてみよう。
永源遥の死因は何か?
いずれ明らかにされるであろう永源遥の死因であるが、現段階で一番、可能性があるのはヒートショックによるものではないだろうか?
永源遥は70歳と高齢であり、今は冬の始まりと言ってもいい時期。
ヒートショックとは室内の急激な温度差がもたらす身体の悪影響を指すものである。
温度差により、人体の血圧が大きく変動し、脳梗塞や心筋梗塞などの可能性を高める非常に厄介な冬によく起きるもの。
一年でヒートショックが原因で死亡する人間は、1万人以上いるという統計結果が出ているのだ。
そして、ヒートショックが起きるのは、入浴中の人間であることがダントツに多いのだそうだ。
正しく永源遥の死去時の状態はヒートショック意外に考えられないくらいに、症例に合致してはいないだろうか?
永源遥のまとめ
永源遥とラッシャー木村とのかけあい漫才の様なプロレス試合は筆者も笑いながら大変楽しませてもらったものだ。
生涯、現役プロレスラーに拘りながらも、実はプロレスラー以外のフロント運営にも類まれなる才能があった永源遥。
相談役としてノアでは、団体の発展に大きく貢献したものの、その晩年はスキャンダルにより失脚したのが残念であった。
死因は謎のままであるが、心から永源遥のご冥福をお祈り申し上げます。