あさま山荘事件とは、日本のテロ組織【連合赤軍】が起こした立てこもり事件。
今、尚、語り継がれる日本犯罪史上・稀に見る人質籠城事件であるが、犯人は現在も全員、存命中。
事件を起こした犯人と逮捕されたその後はどうなったのかを要点をまとめてみましょう。
あさま山荘事件の犯人について
あさま山荘事件は長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所【浅間山荘】で起きた。
犯人は連合赤軍の5名であり、浅間山荘の管理人の妻を人質にとり、10日に渡って籠城したのちに終結した。
この事件で死亡したのは3名であり、2人は警察官、残りの1人は民間人。
負傷者は27名である。
ここでは犯人を重点的にとりあげることにする。
あさま山荘事件の犯人・坂口弘
坂口弘は1946年11月12日に千葉県富津市で生まれた。
東京水産大学に入学したが左翼による労働運動に身を捧げる為に、大学を中退。
印刷工場に就職しながら、労働運動に従事する中で、革命左派に合流し、交番や銃砲店の襲撃で銃器を強奪。
革命左派は赤軍と合体して、連合赤軍となり、坂口弘はNo.3の立場となる。
その後、山岳ベース事件に関わり、連合赤軍の森恒夫と永田洋子が下山したのちに、ベース内の同志たちをまとめていたが、脱走者が出た為にベースを移動。
移動中にあさま山荘を発見し、坂口弘は山荘に立て籠ることを決めて、あさま山荘に侵入し事件を起こした。
あさま山荘事件の犠牲者である民間人を狙撃して死なせたのは彼であり、他にも報道関係者を狙撃し重傷を負わせ、山荘に突入した機動隊員に爆弾を炸裂させて負傷させる。
あさま山荘事件の犯人・坂東國男
坂東國男は1947年1月10日に滋賀県大津市で生まれた。
実家は旅館を経営し裕福な家庭で育ち、京都大学農学部に進学するも退学となり、赤軍に参加。
赤軍の資金調達を担い、M作戦と言われる金融機関の強盗事件に関与し、後に赤軍と革命左派が合流し連合赤軍となった時には幹部に就任。
山岳ベース事件の後、坂口弘と他3名と供にあさま山荘事件を起こし、包囲した警官に狙撃し命を奪った。
あさま山荘事件の犯人・吉野雅邦
吉野雅邦は1948年3月27日に東京都杉並区で生まれた。
父親は東京帝国大学を出て、三菱地所に勤めていたエリートである。
父と同じ東京大学への入学を志望するものの不合格となり、浪人の後、横浜国立大学経済学部に入学。
学生運動に参加し、中核派の員となるが、デモ活動で逮捕され鑑別所に送られる。
途中、恋人との関係に悩み自殺未遂をはかるなどの精神的脆さを見せたが、後に再び学生運動に参加し、革命左派の坂口弘と接触。
後に革命左派に加わり、脱走メンバーの処刑の実行犯となり、これが革命左派のトップ・永田洋子に認められて重要視される。
連合赤軍になってから、妻と供に参加していたが、山岳ベース事件で過激な闘争に反対し、総括を求められて妻はその際、総括という名のリンチで命を落とした。
その後、坂口弘らと供にあさま山荘に立て籠り、説得にきた母親の乗る装甲車に発砲する非情さを見せ、機動隊員3名に発砲し重軽傷を負わせた。
あさま山荘事件の犯人・加藤倫教
加藤倫教は1952年に愛知県刈谷市で生まれた。
高校生の時に長兄で後に山岳ベース事件で命を落とす加藤能敬に影響されて、革命左派に参加。
山岳ベース事件では長兄の総括に不本意ながら参加し、死なせてしまったことから、弟の加藤元久と脱走しようとするが失敗。
その後、連合赤軍のトップであった森恒夫と永田洋子が下山し逮捕され、坂口弘と供に逃亡中にあさま山荘に侵入し、事件を起こした。
当時、加藤倫教は未成年であったため、報道時には少年Aとして報道。
あさま山荘事件の犯人・加藤元久
加藤元久は1956年に愛知県刈谷市で生まれた。
高校生時代から長男の加藤能敬に影響されて、街頭デモを行うが、父の反対に遭い家出をして、革命左派に参加。
山岳ベース事件では次男の加藤倫敬と供に、兄の総括に加わるものの死なせてしまい、脱走を試みたが失敗。
坂口弘や坂東國男らと供に行動し、あさま山荘事件に立て籠り、事件を起こした。
次男の加藤倫敬と供に、加藤元久も未成年であった為に、当時の報道では少年Bとして報道された。
あさま山荘事件の犯人のその後
あさま山荘に約10日間、立て籠った後に犯人5名は全て逮捕されたその後について。
あさま山荘事件の犯人・坂口弘のその後
逮捕されたその後の坂口弘は殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件の罪で起訴。
武装して革命を起こそうとした連合に疑問が生じだし、山岳ベース事件の同志の総括というなのリンチ事件に関しては反省し、拘留中は非常に大人しかった。
1975年、クアラルンプールで日本赤軍が日本の刑務所に収監されている同志を強制的に解放させる為に起こした大使館占拠事件の際、釈放リストの一人であったが、これを坂口弘は拒否。
私の闘争の場は法廷であり、もはや暴力革命を志す時期ではない。
こう主張し、逃亡できる機会を自ら退けて、1993年2月19日に死刑が確定した。
あさま山荘事件の犯人・坂東國男のその後
あさま山荘事件の犯人の中では唯一、赤軍派であった坂東國男は逮捕、拘留。
その後、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件で、超法規的措置によって釈放されて国外脱出。
日本赤軍にそのまま参加して、重信房子の側近となり、広報活動を展開。
2001年に日本赤軍最高幹部である重信房子が解散を宣言したが、これに反して大道寺あや子と供に日本赤軍解散宣言無効を表明している。
あさま山荘事件の犯人・吉野雅邦のその後
吉野雅邦は逮捕されたその後の調べで山岳ベース事件で命を落とした妻とお腹の中にいた子供の写真を捜査官から見せられた際に、
この子は死んでいない、どこかに生きている
と、供述していたが、捜査官の説得により、別件のリンチ事件で命を落とした同志たちの遺体の場所を自供した。
検察側は死刑を求刑したものの、吉野雅邦は一連の事件の首謀者ではなく、あくまで兵隊としての立場であり、あさま山荘事件に至っては、坂口弘と坂東國男の指示によって行われたことを考慮して、幇助犯と認められた。
よって、死刑ではなく無期懲役が妥当という裁定が下りた。
あさま山荘事件の犯人・加藤倫教のその後
加藤倫教は少年Aとして未成年者であったが、1983年2月に懲役13年の刑が確定した。
その後、三重刑務所に送られて、同所で服役。
1987年1月に仮釈放されて、地元の愛知県に帰郷。
実家の農家を継いで生計を立てる傍ら、野生動物や自然環境保護団体に所属し、同団体の役員を務めた。
特に環境保護活動に尽力しており、これらの活動家として精力的に動き、2005年の愛知万博の際、海上の森の木々の伐採から守ったという実績を挙げた。
あさま山荘事件の犯人・加藤元久のその後
あさま山荘事件で逮捕された当時は16歳であった加藤元久は、保護処分となり中等少年院に送致。
その後の記録は存在しておらずに、実家に帰ったと思われるものの、具体的な記録はない。
あさま山荘事件の犯人の現在は?
日本犯罪史上・歴史に残る日本中を震撼させたあさま山荘事件から42年。
これだけの長きの年月を得て、5人の犯人は現在も尚、生きながらえている。
あさま山荘事件の犯人・坂口弘の現在
坂口弘は1993年2月19日に死刑が確定し、長野刑務所に拘置中。
死刑判決から24年が経っておりながら、死刑執行が行われないことを疑問視する声は、現在でも多いようだ。
この理由は共犯者の坂東國男が超法規的処置により、国外逃亡して裁判が終わっていないことによる影響であると言われている。
あさま山荘事件の犯人・坂東國男の現在
坂東國男は現在も尚、警察庁に指名手配中とされている。
また日本赤軍に参加後にダッカ日航機ハイジャック事件に関与したことが分かっており、国際指名手配中の身である。
現在の詳しい詳細は不明であり、70歳であることから死去している可能性もある。
だが、公安当局の発表によると、坂東國男は中東に活動の拠点をおいており、中国やネパール、ルーマニアなどに入国していた形跡があるのだという。
今後、坂東國男が逮捕された場合は、あさま山荘事件、並びに連合赤軍などの裁判が再開される。
これにより、坂口弘の死刑執行も行われるという状態になるのだが、果たして・・・。
あさま山荘事件の犯人・吉野雅邦の現在
吉野雅邦は1983年3月に無期懲役により千葉刑務所に移送。
現在も同所に服役しており、これまで自身が加担した連合赤軍などの手記を執筆しており、有志たちが結成した【連合赤軍事件の全体像を残す会】にそれらの手記を公開している。
あさま山荘事件の犯人・加藤倫教の現在
加藤倫教は2014年3月にフジテレビの特番で、あさま山荘事件の犯人としてインタビュー出演し、心境を告白。
現在は自由民主党に入党し、若かりし頃の思想とは真逆の立場になっているが、この理由を現在の行っている環境保護活動などの為と語っている。
あさま山荘事件の犯人・加藤元久の現在
加藤元久の現在は兄の加藤倫教が一番、知っていると思われるが、テレビインタビューの際は何も語られていない。
よって、詳細は不明であるものの、ネット上には左翼活動家として名前と顔写真画像が残っている。
あさま山荘事件で逮捕された後の活動内容は全く情報が無いために、それら左翼活動家としての情報や顔写真画像の信憑性は低い恐れがある。
おわりに
あさま山荘事件は日本犯罪史上、極めて稀なテロ集団による死傷者を出した籠城事件。
様々なエピソードがこの事件には隠されている者の、ここでは敢えて犯人たちの詳細と逮捕その後の展開、そして現在を紐解いてみた。
40年以上の歳月により、現在は平和に余生を過ごしている者や、獄中で最期の時を待つかの様な半分、死んだ生活を送っている者など、明暗がくっきりと出ている現在。
こうした事件を紐解いていくと、正義や愛などというものは、いかに脆く曖昧で不確実な概念かということをまざまざと思い知らされるのだが。
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